と先生は先生で忌々しそうに、そんな御辞儀には及ばなかったという返事だ。実に、損な役廻りを勤めたものだ。

     春の先駆《せんく》

 一雨ごとに温暖《あたたか》さを増して行く二月の下旬から三月のはじめへかけて桜、梅の蕾《つぼみ》も次第にふくらみ、北向の雪も漸く溶け、灰色な地には黄色を増して来た。楽しい春雨の降った後では、湿った梅の枝が新しい紅味を帯びて見える。長い間雪の下に成っていた草屋根の青苔《あおごけ》も急に活《い》き返る。心地《ここち》の好い風が吹いて来る。青空の色も次第に濃くなる。あの羊の群でも見るような、さまざまの形した白い黄ばんだ雲が、あだかも春の先駆をするように、微《かす》かな風に送られる。
 私は春らしい光を含んだ西南の空に、この雲を注意して望んだことがあった。ポッと雲の形があらわれたかと思うと、それが次第に大きく、長く、明らかに見えて南へ動くに随《したが》って消《きえ》て行く。すると復《ま》た、第二の雲の形が同一の位置にあらわれる。そして同じように展開する。柔かな乳青《にゅうせい》の色の空に、すこし灰色の影を帯びた白い雲が遠く浮んだのは美しい。

     星

 月の上るは十二時頃であろうという暮方、青い光を帯びた星の姿を南の方の空に望んだ。東の空には赤い光の星が一つ掛った。天にはこの二つの星があるのみだった。山の上の星は君に見せたいと思うものの一つだ。

     第一の花

「熱い寒いも彼岸まで」とは土地の人のよく言うことだが、彼岸という声を聞くと、ホッと溜息《ためいき》が出る。五ヵ月の余に渡る長い長い冬を漸く通り越したという気がする。その頃まで枯葉の落ちずにいる槲《かしわ》、堅い大きな蕾を持って雪の中で辛抱し通したような石楠木《しゃくなぎ》、一つとして過ぎ行く季節の記念でないものは無い。
 私達が学校の教室の窓から見える桜の樹は、幹にも枝にも紅い艶《つや》を持って来た。家へ帰って庭を眺めると、土塀《どべい》に映る林檎《りんご》や柿の樹影《こかげ》は何時まで見ていても飽きないほど面白味がある。暖くなった気候のために化生した羽虫が早や軒端《のきば》に群を成す。私は君に雑草のことを話したが、三月の石垣の間には、いたち草、小豆《あずき》草、蓬《よもぎ》、蛇《へび》ぐさ、人参《にんじん》草、嫁菜、大なずな、小なずな、その他数え切れないほどの草の種類が頭を持ち上げているのを見る。私は又三月の二十六日に石垣の上にある土の中に白い小さな「なずな」の花と、紫の斑《ふ》のある名も知らない草の小さな花とを見つけた。それがこの山の上で見つけた第一の花だ。

     山上の春

 貯えた野菜は尽き、葱《ねぎ》、馬鈴薯《じゃがいも》の類まで乏しくなり、そうかと言って新しい野菜が取れるには間があるという頃は、毎朝々々|若布《わかめ》の味噌汁《みそしる》でも吸うより外に仕方の無い時がある。春雨あがりの朝などに、軒づたいに土壁を匍《は》う青い煙を眺めると、好い陽気に成って来たとは思うが、食物《たべもの》の乏しいには閉口する。復た油臭い凍豆腐《しみどうふ》かと思うと、あの黄色いやつが壁に釣されたのを見てもウンザリする。淡雪の後の道をびしょびしょ歩みながら、「草餅《くさもち》はいりませんか」と呼んで来る女の声を聞きつけるのは嬉しい。
 三月の末か四月のはじめあたりに、君の住む都会の方へ出掛けて、それからこの山の上へ引返して来る時ほど気候の相違を感ずるものは無い。東京では桜の時分に、汽車で上州辺を通ると梅が咲いていて、碓氷峠《うすいとうげ》を一つ越せば軽井沢はまだ冬景色だ。私はこの春の遅い山の上を見た眼で、武蔵野《むさしの》の名残《なごり》を汽車の窓から眺めて来ると、「アア柔かい雨が降るナア」とそう思わない訳には行かない。でも軽井沢ほど小諸は寒くないので、汽車でここへやって来るに随って、枯々な感じの残った田畠の間には勢よく萌《も》え出した麦が見られる。黄に枯れた麦の旧葉《ふるは》と青々とした新しい葉との混ったのも、離れて見るとナカナカ好いものだ。
 四月の十五日頃から、私達は花ざかりの世界を擅《ほしいまま》に楽むことが出来る。それまで堪《こら》えていたような梅が一時に開く。梅に続いて直ぐ桜、桜から李《すもも》、杏《あんず》、茱萸《ぐみ》などの花が白く私達の周囲に咲き乱れる。台所の戸を開けても庭へ出掛けて行っても花の香気に満ち溢《あふ》れていないところは無い。懐古園の城址《しろあと》へでも生徒を連れて行って見ると、短いながらに深い春が私達の心を酔うようにさせる……
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   「千曲川のスケッチ」奥書

 このスケッチは長いこと発表しないで置いたものであった。まだこの外にもわたしがあの信濃《しなの》の山の上でつくったスケッ
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