蕾の黄ばんで来る頃から寒さが強くなって、暖い日は起き、寒い日は倒れ萎《しお》れる有様である。驚くべきは南天だ。花瓶《かびん》の中の水は凍りつめているのに、買って挿《さ》した南天の実は赤々と垂下って葉も青く水気を失わず、活々《いきいき》と変るところが無い。
 君は牛乳の凍ったのを見たことがあるまい。淡い緑色を帯びて、乳らしい香もなくなる。ここでは鶏卵も氷る。それを割れば白味も黄身もザクザクに成っている。台処の流許《ながしもと》に流れる水は皆な凍り着く。葱《ねぎ》の根、茶滓《ちゃかす》まで凍り着く。明窓《あかりまど》へ薄日の射して来た頃、出刃包丁《でばぼうちょう》か何かで流許の氷をかんかんと打割るというは暖い国では見られない図だ。夜を越した手桶《ておけ》の水は、朝に成って見ると半分は氷だ。それを日にあて、氷を叩き落し、それから水を汲入れるという始末だ。沢庵《たくあん》も、菜漬も皆な凍って、噛《か》めばザクザク音がする。時には漬物まで湯ですすがねばならぬ。奉公人の手なぞを見れば、黒く荒れ、皮膚は裂けてところどころ紅い血が流れ、水を汲むには頭巾を冠って手袋をはめてやる。板の間へ掛けた雑巾の跡が直に白く凍る朝なぞはめずらしくない。夜更けて、部屋々々の柱が凍《し》み割れる音を聞きながら読書でもしていると、実に寒さが私達の骨まで滲透《しみとお》るかと思われる……
 雪の襲って来る前は反《かえ》って暖かだ。夜に入って雪の降る日なぞは、雨夜《あまよ》のさびしさとは、違って、また別の沈静な趣がある。どうかすると、梅も咲くかと疑われる程、暖かな雪の夜を送ることがある。そのかわり雪の積った後と来ては、堪えがたいほどの凍《し》み方だ。雪のある田畠《たはた》へ出て見れば、まるで氷の野だ。こうなると、千曲川も白く氷りつめる。その氷の下を例の水の勢で流れ下る音がする。

     学生の死

 私達の学校の生徒でOという青年が亡《な》くなった。曾《かつ》て私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
 Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居《すまい》だ。M君が小諸に足を停《とど》めたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家《ふるや》だ。
 細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話をして、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人もあった。
 葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇《やそ》信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹《ぼたん》の造花を載せ、棺の前で讃美歌《さんびか》が信徒側の人々によって歌われた。祈祷《きとう》、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多《コリンタ》後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。
 士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸《いがい》が埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立《たたず》んだりして、この光景《ありさま》を眺めていた。

     暖い雨

 二月に入って暖い雨が来た。
 灰色の雲も低く、空は曇った日、午後から雨となって、遽《にわ》かに復活《いきかえ》るような温暖《あたたか》さを感じた。こういう雨が何度も何度も来た後でなければ、私達は譬《たと》えようの無い烈しい春の饑
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