斗五升よ」
「四斗……」と地主は口籠《くちごも》る。
「四斗五升じゃないや。四斗七升サ。そうだ――」と復た隠居が言った。
「四斗七升?」と地主は隠居の顔を見た。
「ああ四斗七升か」と云い捨てて、辰さんは庭の方へ出て行った。
 私達は炬燵の周囲《まわり》に集った。隠居は古い炬燵板を取出して、それを蒲団《ふとん》の上に載せ、大丼《おおどんぶり》に菎蒻《こんにゃく》と油揚の煮付を盛って出した。小皿には唐辛《とうがらし》の袋をも添えて出した。古い布で盃《さかずき》を拭《ふ》いて、酒は湯沸に入れて勧めてくれた。
「冷《れい》ですよ。燗《かん》ではありませんよ――定屋様はこの方で被入《いら》っらしゃるから」
 こう隠居も気軽な調子で言った。地主は煙管《きせる》を炬燵板の間に差込み、冷酒《ひやざけ》を舐《な》め舐め隠居の顔を眺めて、
「こういう時には婆さんが居ると、都合が好いなア」
 地主の顔には始めて微《かす》かな笑《えみ》が上った。隠居は款待顔《もてなしがお》に、
「婆さんに別れてからねえ、今年で二十五年に成りますよ」
「もう好加減に家へ入れるが可いや」
「まあ聞いて下さい。婆さんには子供が七人も有りましたが、皆な死んで了った……今の辰は貰《もら》い子でサ……どうでしょう、婆さんが私の留守に、家の物を皆な運んで了う。そりゃ男と女の間ですから、大抵のことは納まりますサ……納まりますが……盗みばかりは駄目です。今ここで婆さんを入れる、あの隠居も神信心だなんて言いながら、婆さんの溜《た》めたのを欲しいからと人が言う。それが厭《いや》でサ。婆さんが来ても、直《すぐ》に盗みの話に成ると納まらないや。モメて仕様が無い。ホラ、あの話ねえ――段々|卜《うらな》ってみると、盗人が出て来ましたぜ。可恐《おそろ》しいもんだねえ」
 隠居の話し振には実に気の面白い、小作人仲間の物識と立てられるだけのことがあった。地主と隠居の間には、台所の方に居る同居人母子のことに就いてこんな話も出た。
「へえ、あれが娘ですか」
「子も有るんでさあね。可哀《かわい》そうだから置いて遣《や》ろうと言うんですよ。妙に世間では取る……私だって今年六十七です……この年になって、あんな女を入れたなんて言われちゃ、つまらない――そこが口惜《くや》しいサ」
「幾歳《いくつ》に成ったって気は同じよ」
 御蔭で私もめったに来たことのない屋根の下で、百姓らしい話を聞きながら、時を送った。菎蒻《こんにゃく》と油揚の馳走《ちそう》に成って、間もなく私はこの隠居の家を辞した。
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   その十二


     路傍の雑草

 学校の往還《ゆきかえり》に――すべての物が白雪に掩《おお》われている中で――日の映《あた》った石垣の間などに春待顔な雑草を見つけることは、私の楽みに成って来た。長い間の冬籠《ふゆごも》りだ。せめて路傍の草に親しむ。
 南向きもしくは西向の桑畠《くわばたけ》の間を通ると、あの葉の縁《へり》だけ紫色な「かなむぐら」がよく顔を出している。「車花」ともいう。あの車の形した草が生えているような土手の雪間には、必《きっ》と「青はこべ」も蔓《は》いのたくっている。「青はこべ」は百姓が鶏の雛《ひな》にくれるものだと学校の小使が言った。石垣の間には、スプゥンの形した紫青色の葉を垂れた「鬼のはばき」や、平べったい肉厚な防寒服を着たような「きしゃ草」なぞもある。蓬《よもぎ》の枯れたのや、その他種々な雑草の枯れ死んだ中に、細く短い芝草が緑を保って、半ば黄に、半ば枯々としたのもある。私達が学校のあるあたりから士族屋敷地へかけては水に乏しいので、到るところに細い流を導いてある。その水は学校の門前をも流れている。そこへ行って見ると、青い芝草が残って、他の場所で見るよりは生々としている。
 どういう世界の中にこれ等の雑草が顔を出して、中には極く小さな蕾《つぼみ》の支度をしているか、それも君に聞いて貰《もら》いたい。一月の二十七日あたりから三十一日を越え、二月の六日頃までは、殆《ほと》んど寒さの絶頂に達した。山の上に住み慣れた私も、ある日は手の指の凍り縮むのを覚え、ある日は風邪のために発熱して、気候の激烈なるに驚かされる。降った雪は北向の屋根や庭に凍って、連日溶くべき気色もない……私は根太《ねだ》の下から土と共に持ち上って来た霜柱の為に戸の閉らなくなった古い部屋を見たことがある。北向の屋根の軒先から垂下る氷柱《つらら》は二尺、三尺に及ぶ。身を包んで屋外《そと》を歩いていると気息《いき》がかかって外套《がいとう》の襟《えり》の白くなるのを見る。こういう中で元気の好いのは屋根の上を飛ぶ雀《すずめ》と雪の中をあさり歩く犬とのみだ。
 草木のことを言えば、福寿草を小鉢《こばち》に植えて床の間に置いたところが、
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