、大鉞などが用いられるでも無かった。屠手はいきなり出刃を揮《ふる》って生きている豚の咽喉を突いた。これに私はすくなからず面喰《めんくら》って、眺めていると豚は一層声を揚げて鳴いた。牛の冷静とは大違いだ。豚の咽喉からは赤い血が流れて出た。その毛皮が白いだけ、余計に血の色が私の眼に映った。三人ばかりの屠手がその上に乗ってドシドシ踏み付けるかと見るうちに、忽《たちま》ち豚の気息《いき》は絶えた。
年をとった屠手の頭《かしら》は彼方此方《あちこち》と屠場の中を廻って指図しながら歩いていた。その手も、握っている出刃も、牛と豚の血に真紅《まっか》く染まって見えた。最初に屠《ほふ》られた南部牛は、三人掛りで毛皮も殆んど剥《は》ぎ取られた。すこし離れてこの光景《ありさま》を眺めると、生々《なまなま》とした毛皮からは白い気《いき》の立つのが見える。一方には竹箒《たけぼうき》で板の間の血を掃く男がある。蹲踞《しゃが》んで出刃を磨《みが》くものもある。寒い日の光は注連《しめ》を飾った軒先から射し入って、太い柱や、そこに並んで倒れている牛や、白い被服《うわっぱり》を着けた屠手等の肩なぞを照らしていた。
そのうちに、ある屠手の出刃が南部牛の白い腹部のあたりに加えられた。卵色の膜に包まれた臓腑《ぞうふ》がべろべろと溢《あふ》れ出た。屠手の中には牛の爪先を関節のところから切り放して、土間へ投出《ほうりだ》すのもあり、胴の中程へ出刃を入れて肉を裂くものもあった。牛の体からは膏《あぶら》が流れて、それが血のにおいに混って、屠場に満ちた。
屠牛の四
私は赤い牝牛が「引割《ひきわり》」という方法に掛けられるのを見た。それは鋸《のこぎり》で腰骨を切開いて、骨と骨の間に横木を入れ、後部《うしろ》の脚に綱を繋いで逆さに滑車で釣《つる》し上げるのだ。屠手は三人掛りでその綱を引いた。
「そら、巻くぜ」
「ああまだ尻尾を切らなくちゃ」
屠手の頭《かしら》は手ずからその尻尾を切り放った。
「さあー車々」と言うものもあれば、「ホラ、よいせ」と掛声するものもあって、牝牛の体は柱と柱の間に高く逆さに掛った。脊髄《あばら》の中央から真二つにそれを鋸で引割るのだ。ザクザクと、まるで氷でも引くように。
「どうも切れなくて不可《いけない》」
「鋸が切れないのか、手が切れないのか」
と頭は頭らしいことを言って、笑い眺めていた。
巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗《のぞ》いていた。犬もボンヤリ眺めていた。巡査は逢う人毎に「御目出度《おめでと》う」と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗《きれい》にしよや」
古びた白の被服《うわっぱり》を着けた屠手は獣医の方を見た。
「ハイ」
「醤油で煮染《にし》めたような物じゃ困るナ」
南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股《もも》が屠場の奥の方に釣された。屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺《お》して歩いた。
不思議にも、屠られた牛の傷《いた》ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」という感じに変って行った。豚も最早|一時《いっとき》前まで鳴き騒いだ豚の形体《かたち》はなくて、紅味のある豚肉《とんにく》に成って行った。南部牛の頭蓋骨《ずがいこつ》は赤い血に染みたままで、片隅に投出《ほうりだ》してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。
「このダンベラは、どうかして其方《そっち》へ片付けろ」
と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷《ふろしき》包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。
肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤《はかり》を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。
肉と膏《あぶら》と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。板の間の片隅には手桶《ておけ》に足を差入れて、牛の血を洗い落している人々もある。牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。
「三貫八百――」
それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃《すた》る部分が無い。頭蓋骨は肥料に売る。臓腑と角とは屠手の利《もうけ》に成る。こんな
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