話を聞きながら、間もなく私は亭主と連立って屠牛場の門を出た、枯々な桑畠の間には、喜び騒ぐ犬の声々と共に、牛豚の肉を満載した車の音が高く響き渡った。
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その十
千曲川に沿うて
これまで私が君に話したことで、君は浅間山脈と蓼科《たでしな》山脈との間に展開する大きな深い谷の光景《ありさま》を略《ほぼ》想像することが出来たろうと思う。私は君の心を浅間の山腹へ連れて行って、あそこから見渡した千曲川の話もしたし、ずっと上流の方へ誘って行ってそこにある山々、村々の話もした。暇さえあれば私は千曲川沿岸の地方を探るのを楽みとした。私は岩村田から香坂《こうさか》へ抜け、内山峠を越して上州の方へも下りて見たし、依田川《よだがわ》という千曲川の支流に随《つ》いて和田峠から諏訪《すわ》の方へも出て見たし、霊泉寺の温泉から梅木《うめのき》峠を旅して別所温泉の方へ廻ったこともある。田沢温泉のことは君にも話した。君は私と共に、千曲川の上流にある主なる部分を見たというものだ。私は更に下流の方へ――越後に近い方まで君の心を誘って行こう。
軽井沢の方角から雪の高原を越して次第に小諸へ降りて来た汽車、それに私が乗ったのは一月の十三日だ。この汽車が通って来た碓氷《うすい》の隧道《トンネル》には――一寸《ちょっと》あの峠の関門とも言うべきところに――巨大な氷柱の群立するさまを想像してみたまえ。それから寒帯の地方と気候を同じくするという軽井沢附近の落葉松林《からまつばやし》に俗に「ナゴ」と称えるものが氷の花のように附着するさまを想像してみたまえ。
汽車が小諸を離れる時、プラットフォムの上に立つ駅夫等の呼吸《いき》も白く見えた。窓の硝子越《ガラスごし》に眺《なが》めると田、野菜畠、桑畠、皆な雪に掩《おお》われて、谷の下の方を暗い藍色《あいいろ》な千曲川の水が流れて行った。村落のあるところには人家の屋根も白く、土壁は暗く、肥桶《こやしおけ》をかついで麦畠の方へ通う農夫等も寒そうであった。田中の駅を通り過ぎる頃、浅間、黒斑《くろふ》、烏帽子《えぼし》等の一帯の山脈の方を望むと空は一面に灰色で、連続した山々に接した部分だけ朦朧《もうろう》と白く見えた。Unseen Whiteness――そんな言葉より外にあの深い空を形容してみようが無かった。窓側に遠く近く見渡される麦畠のサクの窪《くぼ》みへは雪が積って、それがウネウネと並行した白い線を描いた中に、枯々な雑木なぞがポツンポツンと立つのも見えた。
雪国の鬱陶《うっとう》しさよ。汽車は犀川《さいかわ》を渡った。あの水を合せてから、千曲川は一層大河の趣を加えるが、その日は犀川附近の広い稲田も、岸にある低い楊《やなぎ》も、白い土質の崖《がけ》も、柿の樹の多い村落も、すべて雪に掩われて見えた。その沈んだ眺望は唯《ただ》の白さでなくて、紫がかった灰色を帯びたものだった。遠い山々は重く暗い空に隠れて、かすかに姿をあらわして見せた。この一面の雪景色の中で、僅《わず》かに単調を破るものは、ところどころに見える暗い杜《もり》と、低く舞う餓《う》えた烏《からす》の群とのみだ。行手には灰色な雪雲も垂下って来た。次第に私は薄暗い雪国の底の方へ入って行く気がした。ある駅を離れる頃には雪も降って来た。
この旅は私|独《ひと》りでなく小諸から二人の連があった。いずれも私の家に近いところの娘達で、I、Kという連中だ。この二人は小諸の小学を卒《お》えて、師範校の講習を受ける為に飯山まで行くという。汽車の窓から親達の住む方を眺めて、眼を泣きはらして来る程の年頃で、知らない土地へ二人ぎり出掛るとは余程の奮発だ。でもまだ真実《ほんとう》に娘々したところのある人達で、互に肘《ひじ》で突付き合ったり、黄ばんだ歯をあらわして快活に笑ったり、背後《うしろ》から友達を抱いて車中の退屈を慰めたりなどする。Naiveな、可憐《かれん》な、見ていても噴飯《ふきだ》したくなるような連中だ。御蔭で私も紛れて行った。Iの方は私の家の大屋さんの娘だ。
豊野で汽車を下りた。そのあたりは耕地の続いた野で、附近には名高い小布施《おぶせ》の栗林《くりばやし》もある。その日は四阿《あずま》、白根の山々も隠れてよく見えなかった。雪の道を踏んで行くうちに、路傍に梨や柿の枯枝の見える、ある村の坂のところへ掛った。そこは水内《みのち》の平野を見渡すような位置にある。私が一度その坂の上に立った時は秋で、豊饒《ほうじょう》な稲田は黄色い海を見るようだった。向の方には千曲川の光って流れて行くのを望んだこともあった。遠く好い欅《けやき》の杜《もり》を見て置いたが、黄緑な髪のような梢《こずえ》からコンモリと暗い幹の方まで、あの樹木の全景は忘られずにある。雪の中を私達は蟹沢《
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