》しつけられるような心持《こころもち》に成る。可怖《おそろ》しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成《かなり》大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃《いんぎん》な家族の人達が私の心を惹《ひ》いた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側《わき》から直《じか》に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚《ぶどうだな》などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛《ちちうし》が飼われている。
 Sの兄は大きなバケツを提《さ》げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲《かが》めて、新鮮な牛乳を罎詰《びんづめ》にする仕度《したく》をした。暫時《しばらく》、私は立って眺《なが》めていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々《いろいろ》な話を聞いた。牛の性質によって温順《おとな》しく乳を搾《しぼ》らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着《おちつ》いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西《にし》の入《いり》の牧場《まきば》なぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

     鉄砲虫

 この山の上で、私はよく光沢《つやけ》の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺《くさぶき》の小屋の前や、桑畠《くわばたけ》の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
 学校の小使が私にこんなことを言った。

     烏帽子山麓《えぼしさんろく》の牧場

 水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれてい
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