《ろくしょう》がかったやつなぞを近在の老婆達が売りに来る。
 一月ばかり前に、私は田沢温泉という方へ出掛けて行って来た。あの話を君にするのを忘れた。
 温泉地にも種々《いろいろ》あるが、山の温泉は別種の趣がある。上田町に近い別所温泉なぞは開けた方で、随《したが》って種々の便利も具《そな》わっている。しかし山国らしい温泉の感じは、反《かえ》って不便な田沢、霊泉寺などに多く味《あじわ》われる。あの辺にも相応な温泉宿は無いではないが、なにしろ土地の者が味噌《みそ》や米を携えて労苦を忘れに行くという場所だ。自炊する浴客が多い。宿では部屋だけでも貸す。それに部屋付の竃《かまど》が具えてある。浴客は下駄穿《げたばき》のまま庭から直《すぐ》に楼梯《はしごだん》を上って、楼上の部屋へ通うことも出来る。この土足で昇降《あがりおり》の出来るように作られた建物を見ると、山深いところにある温泉宿の気がする。鹿沢《かざわ》温泉(山の湯)と来たら、それこそ野趣に富んでいるという話だ。
 半ば緑葉に包まれ、半ば赤い崖《がけ》に成った山脈に添うて、千曲川の激流を左に望みながら、私は汽車で上田まで乗った。上田橋――赤く塗った鉄橋――あれを渡る時は、大河らしい千曲川の水を眼下《めのした》に眺《なが》めて行った。私は上田附近の平地にある幾多の村落の間を歩いて通った。あの辺はいかにも田舎道《いなかみち》らしい気のするところだ。途中に樹蔭《こかげ》もある。腰掛けて休む粗末な茶屋もある。
 青木村というところで、いかに農夫達が労苦するかを見た。彼等の背中に木の葉を挿《さ》して、それを僅《わず》かの日除《ひよけ》としながら、田の草を取って働いていた。私なぞは洋傘《こうもり》でもなければ歩かれない程の熱い日ざかりに。この農村を通り抜けると、すこし白く濁った川に随《つ》いて、谷深く坂道を上るように成る。川の色を見ただけでも、湯場に近づいたことを知る。そのうちに、こんな看板の掛けてあるところへ出た。
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     ┃ 湯           ┃
     ┃   ※[#ます記号、1−2−23] み や ば ら ┃
     ┃ 本           ┃
     ┗━━━━━━━━━━━━━┛
 升屋《ますや》というは眺望の好い温泉宿だ。湯川の流れる音が聞える楼上で、私達の学校
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