通には紅白の提灯が往来《ゆきき》の人の顔に映った。その影で、私は鳩屋《はとや》のI、紙店《かみみせ》のKなぞの手を引き合って来るのに逢った。いずれも近所の快活な娘達だ。

     十三日の祇園《ぎおん》

 十三日には学校でも授業を休んだ。この授業を止む休《やす》まないでは毎時《いつでも》論があって、校長は大抵の場合には休む方針を執り、幹事先生は成るべく休まない方を主張した。が、祇園の休業は毎年の例であった。
 近在の娘達は早くから来て町々の角に群がった。戸板や樽《たる》を持出し、毛布《ケット》をひろげ、その上に飲食《のみくい》する物を売り、にわかごしらえの腰掛は張板で間に合わせるような、土地の小商人《こあきんど》はそこにも、ここにもあった。日頃顔を見知った八百屋《やおや》夫婦も、本町から市町の方へ曲ろうとする角のあたりに陣取って青い顔の亭主と肥った内儀《かみさん》とが互に片肌抜《かたはだぬぎ》で、稲荷鮨《いなりずし》を漬《つ》けたり、海苔巻《のりまき》を作ったりした。貧しい家の児が新調の単衣《ひとえ》を着て何か物を配り顔に町を歩いているのも祭の日らしい。
 午後に、家のものはB姉妹の許《もと》へ招かれて御輿《みこし》の通るのを見に行った。Bは清少納言《せいしょうなごん》の「枕の草紙」などを読みに来る人で、子供もよくその家へ遊びに行く。
 光岳寺の境内にある鐘楼からは、絶えず鐘の音が町々の空へ響いて来た。この日は、誰でも鐘楼に上って自由に撞《つ》くことを許してあった。三時頃から、私も例の組合の家について夏の日のあたった道を上った。そこを上りきったところまで行くと軒毎に青簾《あおすだれ》を掛けた本町の角へ出る。この簾は七月の祭に殊に適《ふさ》わしい。
 祭を見に来た人達は鄙《ひな》びた絵巻物を繰展《くりひろ》げる様に私の前を通った。近在の男女は風俗もまちまちで、紫色の唐縮緬《とうちりめん》の帯を幅広にぐるぐると巻付けた男、大きな髷《まげ》にさした髪の飾りも重そうに見える女の連れ、男の洋傘《こうもりがさ》をさした娘もあれば、綿フランネルの前垂《まえだれ》をして尻端《しりはし》を折った児もある。黒い、太い足に白足袋《しろたび》を穿《はい》て、裾《すそ》の短い着物を着た小娘もある。一里や二里の道は何とも思わずにやって来る人達だ。その中を、軽井沢|辺《あた》りの客と見えて、
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