。小手毬《こでまり》の花の遅いのも咲いていた。藤棚の下へ行くと、池の中の鯉の躍《おど》るのも見えた。「こう水があると、なかなか鯉は捕まらんものさネ」と言っている者も有った。
 池を一廻りした頃、番頭は赤い顔をして二階から降りて来た。
「先生、勝負はどうでしたネ」と仕立屋が尋ねた。
「二番とも、これサ」
 番頭は鼻の先へ握り拳《こぶし》を重ねて、大天狗《だいてんぐ》をして見せた。そして、高い、快活な声で笑った。
 こういう人達と一緒に、どちらかと言えば陰気な山の中で私は時を送った。ポツポツ雨の落ちて来た頃、私達はこの山荘を出た。番頭は半ば酔った調子で、「お二人で一本だ、相合傘《あいあいがさ》というやつはナカナカ意気なものですから」
 と番傘を出して貸してくれた。私は仕立屋と一緒にその相合傘で帰りかけた。
「もう一本お持ちなさい」と言って、復《ま》た小僧が追いかけて来た。

     毒消売の女

「毒消は宜《よ》う御座んすかねえ」
 家々の門《かど》に立って、鋭い越後訛《えちごなまり》で呼ぶ女の声を聞くように成った。
 黒い旅人らしい姿、背中にある大きな風呂敷《ふろしき》、日をうけて光る笠、あだかも燕《つばめ》が同じような勢揃《せいぞろ》いで、互に群を成して時季を違えず遠いところからやって来るように、彼等もはるばるこの山の上まで旅して来る。そして鳥の群が彼方《かなた》、此方《こなた》の軒に別れて飛ぶように彼等もまた二人か三人ずつに成って思い思いの門を訪れる。この節私は学校へ行く途中で、毎日のようにその毒消売の群に逢う。彼等は血気|壮《さか》んなところまで互によく似ている。

     銀馬鹿

「何処《どこ》の土地にも馬鹿の一人や二人は必ずある」とある人が言った。
 貧しい町を通って、黒い髭《ひげ》の生えた飴屋《あめや》に逢った。飴屋は高い石垣の下で唐人笛《とうじんぶえ》を吹いていた。その辺は停車場に近い裏町だ。私が学校の往還《ゆきかえり》によく通るところだ。岩石の多い桑畠《くわばたけ》の間へ出ると、坂道の上の方から荷車を曳《ひ》いて押流されるように降りて来た人があった。荷車には屠《ほふ》った豚の股《もも》が載せてあった。後で、私はあの人が銀馬鹿だと聞いた。銀馬鹿は黙ってよく働く方の馬鹿だという。この人は又、自分の家屋敷を他《ひと》に占領されてそれを知らずに働いている
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