、笑い眺めていた。
 巡査が入って来た。子供達はおずおずと屠場を覗《のぞ》いていた。犬もボンヤリ眺めていた。巡査は逢う人毎に「御目出度《おめでと》う」と言ったまま、火のある小屋の方へ行った。このごちゃごちゃした屠場の中を獣医は見て廻って、「オイ正月に成ったら御装束をもっと奇麗《きれい》にしよや」
 古びた白の被服《うわっぱり》を着けた屠手は獣医の方を見た。
「ハイ」
「醤油で煮染《にし》めたような物じゃ困るナ」
 南部牛は既に四つの大きな肉の塊に成って、その一つズツの股《もも》が屠場の奥の方に釣された。屠手の頭はブリキの箱を持って来て、大きな丸い黒印をベタベタと牛の股に捺《お》して歩いた。
 不思議にも、屠られた牛の傷《いた》ましい姿は、次第に見慣れた「牛肉」という感じに変って行った。豚も最早|一時《いっとき》前まで鳴き騒いだ豚の形体《かたち》はなくて、紅味のある豚肉《とんにく》に成って行った。南部牛の頭蓋骨《ずがいこつ》は赤い血に染みたままで、片隅に投出《ほうりだ》してあったが、屠手が海綿でその血を洗い落した。肉と別々にされた骨の主なる部分は、薪でも切るように、例の大鉞で四つほどに切断せられた。屠手の頭も血にまみれた両手を洗って腰の煙草入を取出し、一服やりながら皆なの働くさまを眺めた。
「このダンベラは、どうかして其方《そっち》へ片付けろ」
 と獣医は屠手に言付けて、大きな風呂敷《ふろしき》包を見るような臓腑を片付けさしたが、その辺の柱の下には赤い牝牛の尻尾、皮、小さな二つの角なぞが残っていた。
 肉屋の若い者はガラガラと箱車を庭の内へ引き込んだ。箱にはアンペラを敷いて、牛の骨を投入れた。
「十貫六百――八貫二百――」
 なぞと読み上げる声が屠場の奥に起った。屠手は二人掛りで大きな秤《はかり》を釣して、南部牛や雑種や赤い牝牛の肉の目方を計る。肉屋の亭主は手帳を取出し一々それを鉛筆で書留めた。
 肉と膏《あぶら》と生血のにおいは屠場に満ち満ちていた。板の間の片隅には手桶《ておけ》に足を差入れて、牛の血を洗い落している人々もある。牝牛の全部は早や車に積まれて門の外へ運び去られた。
「三貫八百――」
 それは最後に計った豚の片股を読み上げる声だった。肉屋の亭主に言わせると、牛は殆んど廃《すた》る部分が無い。頭蓋骨は肥料に売る。臓腑と角とは屠手の利《もうけ》に成る。こんな
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