、他《ひと》に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、おせんは何をして可《い》いかも解らないような人で、自分の櫛箱《くしばこ》の仕末まで夫の手を煩《わずら》わして、マルを抱きながら、それを見ていたものだ。それほど子供らしかった。ああいう時には、大塚さんはもう嘆息して了った。でも、この根岸へ移って落着いてからは、春先に成ると蓬《よもぎ》の芽を摘みに行くところがあると悦んで、軽々とした服装《みなり》をしては出掛けて行って、その帰りには菫《すみれ》の花なぞを植木屋から買って戻って来た。その無邪気さには、又、憎むこともどうすることも出来ないようなところが有った。
 こういう娘のような気で何時までも居て、時には可愛くて可愛くて成らなかったおせんが、次第に大塚さんには見ても飽き飽きする様な人に変って行った。彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、万事家のことは放擲《うっちゃらか》して了った。小言一つ言わなかった……唯、彼女を避けようとした……そして自分は会社のことにばかり出歩いた……さもなければ、会社の用事に仮托《かこつ》けて、旅にばかり出掛けた……そんなことをして、名のつけようの無い悲哀《かなしみ》を忘れようとした……
 おせんと同棲して五年ばかり経った時の大塚さんは、何とかして彼女と別れる機会をのみ待った。機会が来た……しかも堪え難い形でやって来た……それを大塚さんは考えた。

 彼女の旧《もと》の居間へ行って見た。今は親しい客でも有る時に通す特別な応接間に用いている。そこだけは、西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。
 可傷《いたま》しい記憶の残っているのも、その部屋だ。若く美しい妻を置いて、独りで寂しく旅ばかりするように成ったということや、あれ程親戚友人の反対が有ったにも関《かかわ》らず、誰の言うことも聞入れずに迎えたおせん、その人と終《しまい》には別れる機会をのみ待つように成って行ったということは、後から考えれば、夢のようだ。実際、それが事実であったから仕方ない。何物にも換えられなかった楽しい結婚の褥《しとね》、そこから老い行く生命《いのち》を噛《か》むような可恐《おそろ》しい虫が這出《はいだ》そうとは……
 大塚さんは彼女を放擲《うっちゃらか》して関《かま》わずに置いた日のことを考えた。あらゆる夫婦らしい親密《したしみ》も快楽《たのしみ》も行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍《ししゅう》なぞも好くしたが、終《しまい》にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。
 悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。尤《もっと》も、親しげに言葉の取換《とりかわ》される様子を見たというまでで、以前家に置いてあった書生が彼女の部屋へ出入《ではいり》したからと言って、咎《とが》めようも無かったが……疑えば疑えなくもないようなことは数々あった……彼は鋭い刃物の先で、妻の白い胸を切開いて見たいと思った程、烈《はげ》しい嫉妬《しっと》で震えるように成って行った。
 そこまで考え続けると、おせんのことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりはハッキリと見えて来た。そういう悲しい幕の方へ彼女を追い遣《や》ったのは、誰か。よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲《うっちゃらか》して置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者を悦《よろこ》んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をのみ待っていたものは、一体誰か。
 制《おさ》え難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地《きれぢ》に宛行《あてが》ったり、その上から白粉《おしろい》を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景《さま》が、唯|涙脆《なみだもろ》かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子に倚《よ》りながら、種々《いろいろ》なことを思出した。若い妻が訳もなく夫を畏《おそ》れるような眼付して、自分の方を見たことを思出した。彼女の鼻をかむ音がよくこの部屋から聞えたことを思出した。
 今居る書生の一人がそこへ入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも逢いたくないと言って、用事だけ聞いて置くようにとその書生に吩咐《いいつ》けた。
「いずれ会社のものを伺わせます、その節は電話で申上げますッて、そう言ってくれ給え」
 と附添えて言った。大塚さんが客を謝《ことわ》るというは、めずらしいことだった。

 書生が出て行った後、大塚さんはその部屋の内を歩いて、そこに箪笥《たんす》が置いてあった、ここに屏風《びょうぶ》が立て廻してあった、と思い浮べた。襖《ふすま》一つ隔てて直ぐその次にある納戸《なんど》へも行って見た。そこはおせんが鏡に向って髪をとかした小部屋だ。彼女の長い着物や肌《はだ》につけた襦袢なぞがよく掛っていたところだ。
 何か残っている物でも出て来るか、こう思って、大塚さんは戸棚の中までも開けて見た。
 そうだ、おせんは身に覚えが無いと言って泣いたりしたが、終《しまい》には観念したと見え、紅く泣|腫《はら》した顔を揚げて、生家《さと》の方へ帰れという夫の言葉に随《したが》った。そんな場合ですら、彼女は自分で自分の身のまわりの物をどう仕末して可いかも解らなかった。殆んど途方に暮れていた。夫の手伝いなしには、碌《ろく》に柳行李《やなぎごうり》一つ纏《まと》めることも出来なかった。見るに見兼ねて、大塚さんは彼女の風呂敷包までも包み直して遣った。車に乗るまでも見て遣った。まるで自分の娘でも送り出すように。それほど無邪気な人だった。
 納戸から、部屋を通して、庭の方が見える。おせんが出たり入ったりした頃の部屋の光景《さま》が眼に浮ぶ。庭には古い躑躅《つつじ》の幹もあって、その細い枝に紫色の花をつける頃には、それが日に映じて、部屋の障子までも明るく薄紫の色に見せる。どうかすると、その暖い色が彼女の仮寝《うたたね》している畳の上まで来ていることも有った。
 急に庭の方で、
「マル――来い、来い」
 と呼ぶ書生の声が起った。
 マルは廊下伝いに駆出して来た。庭へ下りようともせずに、戯《ふざ》けるような声を出して鳴いた。
 おせんが子のように愛した狆の鳴声は、余計に彼女のことを想わせた。一人も彼女に子供が無かったことなぞを思わせた。大塚さんは納戸を離れて、部屋にある安楽椅子の後を廻った。廊下へ出て見ると、咲きかけた桜の若葉が眼前《めのまえ》にある。麗かな春の光は花に映じている。
 マルは呻《うめ》くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻《か》き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして萎《しお》れ返っていたものだ。
 大塚さんはマルを膝の上に乗せて、抱締るようにして顔を寄せた。白い、柔な狆の毛は、あだかもおせんの頬に触れる思をさせた。

 別れるのは反《かえ》ってお互の為だ、そんなことをおせんに言い聞かせて、生家《さと》の方へ帰してやった。大塚さんはそれも考えて見た。
 別れて何か為に成ったろうか。決してそうで無かった。後に成って、反って大塚さんは眼に見えない若い二人の交換《とりかわ》す言葉や、手紙や、それから逢曳《あいびき》する光景《さま》までもありありと想像した。それを思うと仕事も碌々手に着かないで、ある時は二人の在処《ありか》を突留めようと思ったり、ある時は自分の年甲斐《としがい》も無いことを笑ったり、ある時は美しく節操《みさお》の無い女の心を卑しんだりして、それ見たかと言わないばかりの親戚友人の嘲《あざけり》の中に坐って、淋しい日を送ったことが多かった。彼女が後へ残して行った長い長い悲哀《かなしみ》は、唯さえ白く成って来た大塚さんの髪を余計に白くした。
 おせんがある医者のところへ嫁《かたづ》いたという噂は、何か重荷でも卸したように、大塚さんの心を離れさせた。曽《かつ》て彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。
 万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変って来るように成った。男性《おとこ》の心情なぞはそう理解されなくとも可《い》い、仕事の手伝いなぞはどうでも可い、と成って来た。働き者だとか、気性|勝《まさ》りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然《しゃんと》した女よりも、反って涙脆い、柔軟《やわらか》な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶《なお》好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐《なつかし》みもある。ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。
 人間の価値《ねうち》はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀《かな》しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。
 マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔《りちぎがお》な婆さんが勝手の方から廊下を廻ってやって来た。
 大塚さんの親戚からと言って、春らしい到来物が着いた。青々とした笹《ささ》の葉の上には、まだ生きているような鰈《かれい》が幾尾《いくひき》かあった。それを見せに来た。婆さんは大きな皿を手に持ったまま、大塚さんの顔を眺《なが》めて、
「旦那様は御塩焼の方が宜《よろ》しゅう御座いますか。只今は誠に御魚の少い時ですから、この鰈はめずらしゅう御座いますよ。鰹《かつお》に鰆《さわら》なぞはまだ出たばかりで御座いますよ」
 こう言って主人の悦ぶ容子《ようす》を見ようとした。
 何かおせんの着物で残っているものはないか。こう大塚さんは何気なく婆さんに尋ねた。
 婆さんは不思議そうに、
「奥様の御召物で御座いますか。何一つ御残し遊ばした物は御座いません。何から何まで御生家《おさと》の方へ御送りしたんですもの……何物《なんに》も置かない方が好いなんと仰《おっしゃ》って……そりゃ、旦那様、御寝衣《おねまき》まで後で私が御洗濯しまして、御蒲団やなんかと一緒に御送りいたしました」
 と答えたが、やがて独語《ひとりごと》でも言うように、
「旦那様は今日はどう遊ばしたんですか……奥様の御召物が残っていないかなんて、ついぞそんなことを御尋ねに成ったことも無いのに……」
 こう言って見て、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。
 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回《めぐ》って来た春を私語《ささや》いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生《いきかえ》る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。
 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦《おんな》も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点《つ》いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火《あかり》に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。
「御塩焼は奈何《いかが》で御座いますか。もし何でしたら、海胆《うに》でも御着け遊ばしたら――」
 と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似《まね》をしたりした。
 音沙汰《おとさた》の無い、どうしているか解らないような子息《
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング