刺繍
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)独《ひと》り

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)散々|種々《いろいろ》なことを
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 ふと大塚さんは眼が覚めた。
 やがて夜が明ける頃だ。部屋に横たわりながら、聞くと、雨戸へ来る雨の音がする。いかにも春先の根岸辺の空を通り過ぎるような雨だ。その音で、大塚さんは起されたのだ。寝床の上で独《ひと》り耳を澄まして、彼は柔かな雨の音に聞き入った。長いこと、蒲団《ふとん》や掻巻《かいまき》にくるまって曲《かが》んでいた彼の年老いた身体が、復《ま》た延び延びして来た。寝心地の好い時だ。手も、足も、だるかった。彼は臥床《ねどこ》の上へ投出した足を更に投出したかった。土の中に籠《こも》っていた虫と同じように、彼の生命《いのち》は復た眠から匍出《はいだ》した。
 大塚さんは五十を越していた。しかしこれから若く成って行くのか、それとも老境に向っているのか、その差別のつかないような人で、気象の壮《さか》んなことは壮年《わかもの》に劣らなかった。頼りになる子も無く、財産を分けて遣《や》る楽みも無く、こんな風にして死んで了《しま》うのか、そんなことを心細く考え易《やす》い年頃でありながら、何ぞというと彼は癖のように、「まだそんな耄碌《もうろく》はしないヨ」と言って見る方の人だった。有り余る程の精力を持った彼は、これまで散々|種々《いろいろ》なことを経営して来て、何かまだ新規に始めたいとすら思っていた。彼は臥床の上にジッとして、書生や召使の者が起出すのを待っていられなかった。
 でも、早く眼が覚めるように成っただけ、年を取ったか、そう思いながら、雨の音のしなくなる頃には、彼は最早《もう》臥床を離れた。
 やがて彼は自分の部屋から、雨揚りの後の静かな庭へ出て見た。そして、やわらかい香気《におい》の好い空気を広い肺の底までも呼吸した。長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上《かきあ》げる度《たび》に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡《もちあ》げる時だ。彼は自分の内部《なか》の方から何となく心地《こころもち》の好い温熱《あたたかさ》が湧《わ》き上って来ることを感じた。
 例のように、会社の見廻りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達《ようたし》することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯《からだ》が暢々《のびのび》とした。腰の痛いことも忘れた。いかに自由で、いかに手足の言うことを利《き》くような日が、復《ま》た廻《めぐ》り廻って来たろう。すこし逆上《のぼ》せる程の日光を浴びながら、店々の飾窓《かざりまど》などの前を歩いて、尾張町《おわりちょう》まで行った。広い町の片側には、流行《はやり》の衣裳《いしょう》を着けた女連《おんなれん》、若い夫婦、外国の婦人なぞが往ったり来たりしていた。ふと、ある店頭《みせさき》のところで、買物している丸髷《まるまげ》姿の婦人を見掛けた。
 大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。

 避ける間隙《すき》も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。
「おせんさん――」
 と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑《きみどり》の花を垂れた柳並木を通して、電車通の向側へ渡って行く二人の女連の姿が見えた……その一人が彼女らしかった……
 彼女はまだ若く見えた。その筈《はず》だ、大塚さんと結婚した時が二十で、別れた時が二十五だったから。彼女がある医者の細君に成っているということも、同じ東京の中に住んでいるということも、大塚さんは耳にしていた。しかし別れて三年ほどの間よくも分らなかった彼女の消息が、その時、閃《ひらめ》くように彼の頭脳《あたま》の中へ入って来た。流行《はやり》の薄色の肩掛などを纏《まと》い着けた彼女の姿を一目見たばかりで、どういう人と暮しているか、どういう家を持っているか、そんなことが絶間《とめど》もなく想像された。
 種々《いろいろ》な色彩《いろ》に塗られた銀座通の高い建物の壁には温暖《あたたか》な日が映《あた》っていた。用達の為に歩き廻る途中、時々彼は往来で足を留めて、おせんのことを考えた。彼女が別れ際《ぎわ》に残して行った長い長い悲哀《かなしみ》を考えた。
 恐らく、彼女は今|幸福《しあわせ》らしい……無邪気な小鳥……
 彼女が行った後の火の消えたような家庭……暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成っている彼女を眼《ま》のあたりに見て、今更のようにそんなことを考え続けた。
 午後に、会社へ戻ると、車夫が車を持って来て彼を待っていた。彼はそれに乗って諸方《ほうぼう》馳《かけ》ずり廻るには堪《た》えられなく成って来た。銀行へ行くことも止《や》め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。
 大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人の間に激しい反対もあった。それに関《かかわ》らず彼は自分よりずっと年の若い女を択《えら》んだ。楽しい結婚は何物にも換えられなかった。そんな風にして始まった二人の結び付きから、不幸な別離《わかれ》に終ったまでのことが、三年前の悲しいも、八年前の嬉しいも、殆《ほとん》ど一緒に成って、車の上にある大塚さんの胸に浮んだ。

 もとより、大塚さんがおせんと一緒に成った時は、初めて結婚する人では無かった。年齢《とし》が何よりの証拠だ。しかし親戚や友人が止めたように、八年前の彼は二十に成るおせんを妻にして、そう不似合な夫婦がそこへ出来上るとも思っていなかった。活気と、精力と、無限の欲望とは、今だに彼を壮年のように思わせている。まして八年前。その証拠には、おせんと並んで歩いていた頃でも、誰も夫婦らしくないと言った眼付して二人を見て笑ったものも無かった。すくなくも大塚さんにはそう思われた。どうして、おせんが地味な服装《なり》でもして、いくらか彼の方へ歩《あゆ》び寄るどころか。彼女は今でもあの通りの派手づくりだ。若く美しい妻を専有するということは、しかし彼が想像したほど、唯楽しいばかりのものでも無かった。結婚して六十日経つか経たないに、最早《もう》彼は疲れて了った。駄目、駄目、もうすこし男性《おとこ》の心情が理解されそうなものだとか、もうすこし他《ひと》の目に付かないような服装《みなり》が出来そうなものだとか、もうすこしどうかいう毅然《しゃん》とした女に成れそうなものだとか、過《すぐ》る同棲《どうせい》の年月の間、一日として心に彼女を責めない日は無かった――
 三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素《ふだん》信じていたことを――そうだ、よく彼女に向って、誰某《だれそれ》は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒《ほ》めて聞かせたことを、根から底から転倒《ひっくりかえ》されたような心地《こころもち》に成った。「シッカリものだが何だ」こう以前の自分とは反対《あべこべ》なことを言って、家へ戻って来た。彼は自分の家の内に、居ないおせんを捜した。幾つかある部屋部屋へ行って見た。
 内《なか》の庭に向いた廊下のところで、白い毛の長いマルが主人を見つけて馳《か》けて来た。おせんのいる頃から飼われた狆《ちん》だ。体躯《なり》は小さいが、性質の賢いもので、よく人に慣れていた。二人で屋外《そと》からでも帰って来ると、一番先におせんの足音を聞付けるのはこのマルだった。そして、彼女の裾《すそ》に纏い着いたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、まだその廊下のところに立っているようにも思った。

 食堂へ行って見た。そこにはおせんが居た時と同じように、大きな欅《けやき》づくりの食卓が置いてある。黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲《コーヒー》でも持って来るように、と田舎々々した小娘に吩咐《いいつ》けた。廊下を隔てて勝手の方が見える。働好きな婆さんが上草履《うわぞうり》の音をさせている。小娘は婆さんの孫にあたるが、おせんの行った後で、田舎から呼び迎えたのだ。家には書生も二人ほど置いてある。しかし、おせん時代のことを知っているものは、主人思いの婆さんより外に無かった。婆さんは長く奉公して、主人が食物《くいもの》の嗜好《しこう》までも好く知っていた。
 小娘は珈琲|茶碗《ぢゃわん》を運んで来た。婆さんも牛乳の入物を持って勝手の方から来た。その後から、マルも随《つ》いて入って来た。
「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪《かぜ》ばかり引いて、嚔《くしゃみ》ばかり致しております」
 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。
 マルは尻尾《しっぽ》を振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭を撫《な》でてやると、白い毛の長く掩《おお》い冠《かぶ》さった額を向けて、狆らしい眼付で彼の方を見て、嬉しそうに鼻をクンクン言わせた。
 こうして家の内を眺め廻した時は、おせんらしいおせんは一番その静かな食卓の周囲《まわり》に居るように思われた。おせんは夫を助けて働ける女では無かったし、殊《こと》に客なぞのある場合には、もうすこし細君らしい威厳を具《そな》えていたら、と思うことも多かった。「奥様はあんまり愛嬌《あいきょう》が有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂の隅《すみ》のところに珈琲を研《ひ》く道具を持出して、自分で煎《い》ったやつをガリガリと研いたものだ。
 香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルを膝《ひざ》に乗せて、その食卓に対《むか》い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶《かびん》敷を敷いて、好い香のする薔薇《ばら》でその食卓の上を飾って見せたものだ。花は何に限らず好きだったが、黄な薔薇は殊におせんが好きな花だった。そして、自分で眼を細くして、その香気《におい》を嗅《か》いで見るばかりでなく、それを家のものにも嗅がせた。マルにまで嗅がせた。まだ大塚さんはその食卓の上に載せた彼女の白い優しい手を見ることが出来た。その薔薇を花瓶のまま持って夫に勧めた時の、彼女の呼吸までも聞くことが出来た。

 庭へ行って見た。食堂から奥の座敷へ通うところは廻廊風に出来ていて、その間に静かな前栽《せんざい》がある。可成《かなり》広い、植木の多い庭が前栽つづきに座敷の周囲《まわり》を取繞《とりま》いている。古い小さな庭井戸に近く、毎年のように花をつける桜の若木もある。他の植木に比べると、その細い幹はズンズン高くなった。最早紅くふくらんだ蕾《つぼみ》を垂れていたが、払暁《あけがた》の温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿《はさ》んで、派手な模様の長襦袢《ながじゅばん》だけ出して、素足に庭下駄を穿《は》きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映《あた》った庭土の上を歩き廻って、どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思出した。
 そうだ。優しい前髪と、すらりとした女らしい背とを持った子供だった。彼女が嫁《かたづ》いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸《やしき》を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から
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