せた彼女の白い優しい手を見ることが出来た。その薔薇を花瓶のまま持って夫に勧めた時の、彼女の呼吸までも聞くことが出来た。
庭へ行って見た。食堂から奥の座敷へ通うところは廻廊風に出来ていて、その間に静かな前栽《せんざい》がある。可成《かなり》広い、植木の多い庭が前栽つづきに座敷の周囲《まわり》を取繞《とりま》いている。古い小さな庭井戸に近く、毎年のように花をつける桜の若木もある。他の植木に比べると、その細い幹はズンズン高くなった。最早紅くふくらんだ蕾《つぼみ》を垂れていたが、払暁《あけがた》の温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿《はさ》んで、派手な模様の長襦袢《ながじゅばん》だけ出して、素足に庭下駄を穿《は》きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映《あた》った庭土の上を歩き廻って、どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思出した。
そうだ。優しい前髪と、すらりとした女らしい背とを持った子供だった。彼女が嫁《かたづ》いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸《やしき》を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から
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