》に居るように思われた。おせんは夫を助けて働ける女では無かったし、殊《こと》に客なぞのある場合には、もうすこし細君らしい威厳を具《そな》えていたら、と思うことも多かった。「奥様はあんまり愛嬌《あいきょう》が有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂の隅《すみ》のところに珈琲を研《ひ》く道具を持出して、自分で煎《い》ったやつをガリガリと研いたものだ。
 香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルを膝《ひざ》に乗せて、その食卓に対《むか》い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶《かびん》敷を敷いて、好い香のする薔薇《ばら》でその食卓の上を飾って見せたものだ。花は何に限らず好きだったが、黄な薔薇は殊におせんが好きな花だった。そして、自分で眼を細くして、その香気《におい》を嗅《か》いで見るばかりでなく、それを家のものにも嗅がせた。マルにまで嗅がせた。まだ大塚さんはその食卓の上に載
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