た小娘に吩咐《いいつ》けた。廊下を隔てて勝手の方が見える。働好きな婆さんが上草履《うわぞうり》の音をさせている。小娘は婆さんの孫にあたるが、おせんの行った後で、田舎から呼び迎えたのだ。家には書生も二人ほど置いてある。しかし、おせん時代のことを知っているものは、主人思いの婆さんより外に無かった。婆さんは長く奉公して、主人が食物《くいもの》の嗜好《しこう》までも好く知っていた。
 小娘は珈琲|茶碗《ぢゃわん》を運んで来た。婆さんも牛乳の入物を持って勝手の方から来た。その後から、マルも随《つ》いて入って来た。
「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪《かぜ》ばかり引いて、嚔《くしゃみ》ばかり致しております」
 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。
 マルは尻尾《しっぽ》を振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭を撫《な》でてやると、白い毛の長く掩《おお》い冠《かぶ》さった額を向けて、狆らしい眼付で彼の方を見て、嬉しそうに鼻をクンクン言わせた。
 こうして家の内を眺め廻した時は、おせんらしいおせんは一番その静かな食卓の周囲《まわり
前へ 次へ
全24ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング