、よく彼女に向って、誰某《だれそれ》は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒《ほ》めて聞かせたことを、根から底から転倒《ひっくりかえ》されたような心地《こころもち》に成った。「シッカリものだが何だ」こう以前の自分とは反対《あべこべ》なことを言って、家へ戻って来た。彼は自分の家の内に、居ないおせんを捜した。幾つかある部屋部屋へ行って見た。
内《なか》の庭に向いた廊下のところで、白い毛の長いマルが主人を見つけて馳《か》けて来た。おせんのいる頃から飼われた狆《ちん》だ。体躯《なり》は小さいが、性質の賢いもので、よく人に慣れていた。二人で屋外《そと》からでも帰って来ると、一番先におせんの足音を聞付けるのはこのマルだった。そして、彼女の裾《すそ》に纏い着いたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、まだその廊下のところに立っているようにも思った。
食堂へ行って見た。そこにはおせんが居た時と同じように、大きな欅《けやき》づくりの食卓が置いてある。黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲《コーヒー》でも持って来るように、と田舎々々し
前へ
次へ
全24ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング