暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成っている彼女を眼《ま》のあたりに見て、今更のようにそんなことを考え続けた。
 午後に、会社へ戻ると、車夫が車を持って来て彼を待っていた。彼はそれに乗って諸方《ほうぼう》馳《かけ》ずり廻るには堪《た》えられなく成って来た。銀行へ行くことも止《や》め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。
 大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人の間に激しい反対もあった。それに関《かかわ》らず彼は自分よりずっと年の若い女を択《えら》んだ。楽しい結婚は何物にも換えられなかった。そんな風にして始まった二人の結び付きから、不幸な別離《わかれ》に終ったまでのことが、三年前の悲しいも、八年前の嬉しいも、殆《ほとん》ど一緒に成って、車の上にある大塚さんの胸に浮んだ。

 もとより、大塚さんがおせんと一緒に成った時は、初めて結婚する人では無かった。年齢《とし》が何よりの証拠だ。しかし親戚や友人が止め
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