りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達《ようたし》することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯《からだ》が暢々《のびのび》とした。腰の痛いことも忘れた。いかに自由で、いかに手足の言うことを利《き》くような日が、復《ま》た廻《めぐ》り廻って来たろう。すこし逆上《のぼ》せる程の日光を浴びながら、店々の飾窓《かざりまど》などの前を歩いて、尾張町《おわりちょう》まで行った。広い町の片側には、流行《はやり》の衣裳《いしょう》を着けた女連《おんなれん》、若い夫婦、外国の婦人なぞが往ったり来たりしていた。ふと、ある店頭《みせさき》のところで、買物している丸髷《まるまげ》姿の婦人を見掛けた。
 大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。

 避ける間隙《すき》も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。
「おせんさん――」
 と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返
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