様の御召物が残っていないかなんて、ついぞそんなことを御尋ねに成ったことも無いのに……」
 こう言って見て、手に持った魚の皿を勝手の方へ運んで行った。
 庭で鳴く小鳥の声までも、大塚さんの耳には、復た回《めぐ》って来た春を私語《ささや》いた。あらゆる記憶が若草のように蘇生《いきかえ》る時だ。楽しい身体の熱は、妙に別れた妻を恋しく思わせた。
 夕飯の頃には、針仕事に通って来ている婦《おんな》も帰って行った。書生は電話口でしきりとガチャガチャ音をさせていた。電燈の点《つ》いた食堂で、大塚さんは例の食卓に対って、おせんと一緒に食った時のことを思出した。燈火《あかり》に映った彼女の頬を思い出した。殊に湯上りの時なぞはその頬を紅くして笑って見せたことを思出した。
「御塩焼は奈何《いかが》で御座いますか。もし何でしたら、海胆《うに》でも御着け遊ばしたら――」
 と言って婆さんは勝手の方から来た。婆さんの孫娘がかしこまって給仕する側には、マルも居て、主人の食う方を眺めたが、時々物欲しそうな声を出したり、拝むような真似《まね》をしたりした。
 音沙汰《おとさた》の無い、どうしているか解らないような子息《
前へ 次へ
全24ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング