。曽《かつ》て彼の妻であった人も、今は最早全く他人のものだ。それを彼は実際に見て来たのだ。
 万事大塚さんには惜しく成って来た。女というものの考え方からして変って来るように成った。男性《おとこ》の心情なぞはそう理解されなくとも可《い》い、仕事の手伝いなぞはどうでも可い、と成って来た。働き者だとか、気性|勝《まさ》りだとか言われて、男と戦おうとばかりするような毅然《しゃんと》した女よりも、反って涙脆い、柔軟《やわらか》な感じのする人の方が好ましい。快活であれば猶《なお》好い。移り気も一概には退けられない。不義する位のものは、何処かに人の心を引く可懐《なつかし》みもある。ああいうおせんのような女をよく面倒見て、気長に注意を怠らないようにしてやれば、年をとるに随って、存外好い主婦と成ったかも知れない。多情も熟すれば美しい。
 人間の価値《ねうち》はまるで転倒して了った。彼はおせんと別れるより外に仕方が無かったことを哀《かな》しく思った。何故初めからもっと大切にすることは出来なかったろうと思って見た。
 マルの毛を撫でながら、こんな考えに沈んでいるところへ、律義顔《りちぎがお》な婆さんが勝手の
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