納戸から、部屋を通して、庭の方が見える。おせんが出たり入ったりした頃の部屋の光景《さま》が眼に浮ぶ。庭には古い躑躅《つつじ》の幹もあって、その細い枝に紫色の花をつける頃には、それが日に映じて、部屋の障子までも明るく薄紫の色に見せる。どうかすると、その暖い色が彼女の仮寝《うたたね》している畳の上まで来ていることも有った。
 急に庭の方で、
「マル――来い、来い」
 と呼ぶ書生の声が起った。
 マルは廊下伝いに駆出して来た。庭へ下りようともせずに、戯《ふざ》けるような声を出して鳴いた。
 おせんが子のように愛した狆の鳴声は、余計に彼女のことを想わせた。一人も彼女に子供が無かったことなぞを思わせた。大塚さんは納戸を離れて、部屋にある安楽椅子の後を廻った。廊下へ出て見ると、咲きかけた桜の若葉が眼前《めのまえ》にある。麗かな春の光は花に映じている。
 マルは呻《うめ》くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻《か》き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして
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