無くとも親切な若者を悦《よろこ》んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をのみ待っていたものは、一体誰か。
制《おさ》え難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地《きれぢ》に宛行《あてが》ったり、その上から白粉《おしろい》を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景《さま》が、唯|涙脆《なみだもろ》かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子に倚《よ》りながら、種々《いろいろ》なことを思出した。若い妻が訳もなく夫を畏《おそ》れるような眼付して、自分の方を見たことを思出した。彼女の鼻をかむ音がよくこの部屋から聞えたことを思出した。
今居る書生の一人がそこへ入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも逢いたくないと言って、用事だけ聞いて置くようにとその書生に吩咐《いいつ》けた。
「いずれ会社のものを伺わせます、その節は電話で申上げますッて、そう言ってくれ給え」
と附添えて言った。大塚さんが客
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