》わずに置いた日のことを考えた。あらゆる夫婦らしい親密《したしみ》も快楽《たのしみ》も行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍《ししゅう》なぞも好くしたが、終《しまい》にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。
悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。尤《もっと》も、親しげに言葉の取換《とりかわ》される様子を見たというまでで、以前家に置いてあった書生が彼女の部屋へ出入《ではいり》したからと言って、咎《とが》めようも無かったが……疑えば疑えなくもないようなことは数々あった……彼は鋭い刃物の先で、妻の白い胸を切開いて見たいと思った程、烈《はげ》しい嫉妬《しっと》で震えるように成って行った。
そこまで考え続けると、おせんのことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりはハッキリと見えて来た。そういう悲しい幕の方へ彼女を追い遣《や》ったのは、誰か。よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲《うっちゃらか》して置くような夫よりは、意気地は
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