》に居るように思われた。おせんは夫を助けて働ける女では無かったし、殊《こと》に客なぞのある場合には、もうすこし細君らしい威厳を具《そな》えていたら、と思うことも多かった。「奥様はあんまり愛嬌《あいきょう》が有り過ぎるんで御座いますよ、誰にでも好くしようと成さり過ぎるんで御座いますよ」と婆さんまでが言う位だった。でも食卓の周囲なぞは楽しくした方で、よくその食堂の隅《すみ》のところに珈琲を研《ひ》く道具を持出して、自分で煎《い》ったやつをガリガリと研いたものだ。
 香ばしい珈琲のにおいは、過去った方へ大塚さんの心を連れて行った。マルを膝《ひざ》に乗せて、その食卓に対《むか》い合っていた時の、彼女の軽い笑を、まだ大塚さんは聞くことが出来た。毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで造った円形の花瓶《かびん》敷を敷いて、好い香のする薔薇《ばら》でその食卓の上を飾って見せたものだ。花は何に限らず好きだったが、黄な薔薇は殊におせんが好きな花だった。そして、自分で眼を細くして、その香気《におい》を嗅《か》いで見るばかりでなく、それを家のものにも嗅がせた。マルにまで嗅がせた。まだ大塚さんはその食卓の上に載せた彼女の白い優しい手を見ることが出来た。その薔薇を花瓶のまま持って夫に勧めた時の、彼女の呼吸までも聞くことが出来た。

 庭へ行って見た。食堂から奥の座敷へ通うところは廻廊風に出来ていて、その間に静かな前栽《せんざい》がある。可成《かなり》広い、植木の多い庭が前栽つづきに座敷の周囲《まわり》を取繞《とりま》いている。古い小さな庭井戸に近く、毎年のように花をつける桜の若木もある。他の植木に比べると、その細い幹はズンズン高くなった。最早紅くふくらんだ蕾《つぼみ》を垂れていたが、払暁《あけがた》の温かい雨で咲出したのもある。そこはおせんが着物の裾を帯の間に挿《はさ》んで、派手な模様の長襦袢《ながじゅばん》だけ出して、素足に庭下駄を穿《は》きながら、草むしりなぞを根気にしたところだ。大塚さんは春らしい日の映《あた》った庭土の上を歩き廻って、どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思出した。
 そうだ。優しい前髪と、すらりとした女らしい背とを持った子供だった。彼女が嫁《かたづ》いて来たばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな邸《やしき》を持っていたが、ある関係の深い銀行の破産から、他《ひと》に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。そういう時に成ると、おせんは何をして可《い》いかも解らないような人で、自分の櫛箱《くしばこ》の仕末まで夫の手を煩《わずら》わして、マルを抱きながら、それを見ていたものだ。それほど子供らしかった。ああいう時には、大塚さんはもう嘆息して了った。でも、この根岸へ移って落着いてからは、春先に成ると蓬《よもぎ》の芽を摘みに行くところがあると悦んで、軽々とした服装《みなり》をしては出掛けて行って、その帰りには菫《すみれ》の花なぞを植木屋から買って戻って来た。その無邪気さには、又、憎むこともどうすることも出来ないようなところが有った。
 こういう娘のような気で何時までも居て、時には可愛くて可愛くて成らなかったおせんが、次第に大塚さんには見ても飽き飽きする様な人に変って行った。彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、万事家のことは放擲《うっちゃらか》して了った。小言一つ言わなかった……唯、彼女を避けようとした……そして自分は会社のことにばかり出歩いた……さもなければ、会社の用事に仮托《かこつ》けて、旅にばかり出掛けた……そんなことをして、名のつけようの無い悲哀《かなしみ》を忘れようとした……
 おせんと同棲して五年ばかり経った時の大塚さんは、何とかして彼女と別れる機会をのみ待った。機会が来た……しかも堪え難い形でやって来た……それを大塚さんは考えた。

 彼女の旧《もと》の居間へ行って見た。今は親しい客でも有る時に通す特別な応接間に用いている。そこだけは、西洋風にテーブルを置いて、安楽椅子に腰掛けるようにしてある。大塚さんはその一つに腰掛けて見た。
 可傷《いたま》しい記憶の残っているのも、その部屋だ。若く美しい妻を置いて、独りで寂しく旅ばかりするように成ったということや、あれ程親戚友人の反対が有ったにも関《かかわ》らず、誰の言うことも聞入れずに迎えたおせん、その人と終《しまい》には別れる機会をのみ待つように成って行ったということは、後から考えれば、夢のようだ。実際、それが事実であったから仕方ない。何物にも換えられなかった楽しい結婚の褥《しとね》、そこから老い行く生命《いのち》を噛《か》むような可恐《おそろ》しい虫が這出《はいだ》そうとは……
 大塚さんは彼女を放擲《うっちゃらか》して関《かま
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング