暗い寂しい日……それを考えたら何故あんな可愛い小鳥を逃がして了ったろう……何故もっと彼女を大切にしなかったろう……大塚さんは他人の妻に成っている彼女を眼《ま》のあたりに見て、今更のようにそんなことを考え続けた。
午後に、会社へ戻ると、車夫が車を持って来て彼を待っていた。彼はそれに乗って諸方《ほうぼう》馳《かけ》ずり廻るには堪《た》えられなく成って来た。銀行へ行くことも止《や》め、他の会社に人を訪ねることも止め、用達をそこそこに切揚げて、車はそのまま根岸の家の方へ走らせることにした。
大塚さんが彼女と一緒に成ったに就いては、その当時、親戚や友人の間に激しい反対もあった。それに関《かかわ》らず彼は自分よりずっと年の若い女を択《えら》んだ。楽しい結婚は何物にも換えられなかった。そんな風にして始まった二人の結び付きから、不幸な別離《わかれ》に終ったまでのことが、三年前の悲しいも、八年前の嬉しいも、殆《ほとん》ど一緒に成って、車の上にある大塚さんの胸に浮んだ。
もとより、大塚さんがおせんと一緒に成った時は、初めて結婚する人では無かった。年齢《とし》が何よりの証拠だ。しかし親戚や友人が止めたように、八年前の彼は二十に成るおせんを妻にして、そう不似合な夫婦がそこへ出来上るとも思っていなかった。活気と、精力と、無限の欲望とは、今だに彼を壮年のように思わせている。まして八年前。その証拠には、おせんと並んで歩いていた頃でも、誰も夫婦らしくないと言った眼付して二人を見て笑ったものも無かった。すくなくも大塚さんにはそう思われた。どうして、おせんが地味な服装《なり》でもして、いくらか彼の方へ歩《あゆ》び寄るどころか。彼女は今でもあの通りの派手づくりだ。若く美しい妻を専有するということは、しかし彼が想像したほど、唯楽しいばかりのものでも無かった。結婚して六十日経つか経たないに、最早《もう》彼は疲れて了った。駄目、駄目、もうすこし男性《おとこ》の心情が理解されそうなものだとか、もうすこし他《ひと》の目に付かないような服装《みなり》が出来そうなものだとか、もうすこしどうかいう毅然《しゃん》とした女に成れそうなものだとか、過《すぐ》る同棲《どうせい》の年月の間、一日として心に彼女を責めない日は無かった――
三年振で別れた妻に逢って見た大塚さんは、この平素《ふだん》信じていたことを――そうだ
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