りに行く時が来た。大塚さんは根岸にある自宅から京橋の方へ出掛けて、しばらく会社で時を移した。用達《ようたし》することがあって、銀座の通へ出た頃は、実に体躯《からだ》が暢々《のびのび》とした。腰の痛いことも忘れた。いかに自由で、いかに手足の言うことを利《き》くような日が、復《ま》た廻《めぐ》り廻って来たろう。すこし逆上《のぼ》せる程の日光を浴びながら、店々の飾窓《かざりまど》などの前を歩いて、尾張町《おわりちょう》まで行った。広い町の片側には、流行《はやり》の衣裳《いしょう》を着けた女連《おんなれん》、若い夫婦、外国の婦人なぞが往ったり来たりしていた。ふと、ある店頭《みせさき》のところで、買物している丸髷《まるまげ》姿の婦人を見掛けた。
 大塚さんは心に叫ぼうとしたほど、その婦人を見て驚いた。三年ほど前に別れた彼の妻だ。

 避ける間隙《すき》も無かった。彼女は以前の夫の方を振向いた。大塚さんはハッと思って、見たような見ないような振をしながら、そのまま急ぎ足に通り過ぎたが、総身電気にでも打たれたように感じた。
「おせんさん――」
 と彼女の名を口中で呼んで見て、半町ほども行ってから、振返って見た。明るい黄緑《きみどり》の花を垂れた柳並木を通して、電車通の向側へ渡って行く二人の女連の姿が見えた……その一人が彼女らしかった……
 彼女はまだ若く見えた。その筈《はず》だ、大塚さんと結婚した時が二十で、別れた時が二十五だったから。彼女がある医者の細君に成っているということも、同じ東京の中に住んでいるということも、大塚さんは耳にしていた。しかし別れて三年ほどの間よくも分らなかった彼女の消息が、その時、閃《ひらめ》くように彼の頭脳《あたま》の中へ入って来た。流行《はやり》の薄色の肩掛などを纏《まと》い着けた彼女の姿を一目見たばかりで、どういう人と暮しているか、どういう家を持っているか、そんなことが絶間《とめど》もなく想像された。
 種々《いろいろ》な色彩《いろ》に塗られた銀座通の高い建物の壁には温暖《あたたか》な日が映《あた》っていた。用達の為に歩き廻る途中、時々彼は往来で足を留めて、おせんのことを考えた。彼女が別れ際《ぎわ》に残して行った長い長い悲哀《かなしみ》を考えた。
 恐らく、彼女は今|幸福《しあわせ》らしい……無邪気な小鳥……
 彼女が行った後の火の消えたような家庭……
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