、よく彼女に向って、誰某《だれそれ》は女でもなかなかのシッカリものだなどと言って褒《ほ》めて聞かせたことを、根から底から転倒《ひっくりかえ》されたような心地《こころもち》に成った。「シッカリものだが何だ」こう以前の自分とは反対《あべこべ》なことを言って、家へ戻って来た。彼は自分の家の内に、居ないおせんを捜した。幾つかある部屋部屋へ行って見た。
 内《なか》の庭に向いた廊下のところで、白い毛の長いマルが主人を見つけて馳《か》けて来た。おせんのいる頃から飼われた狆《ちん》だ。体躯《なり》は小さいが、性質の賢いもので、よく人に慣れていた。二人で屋外《そと》からでも帰って来ると、一番先におせんの足音を聞付けるのはこのマルだった。そして、彼女の裾《すそ》に纏い着いたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、まだその廊下のところに立っているようにも思った。

 食堂へ行って見た。そこにはおせんが居た時と同じように、大きな欅《けやき》づくりの食卓が置いてある。黒い六角形の柱時計も同じように掛っている。大塚さんはその食卓の側に坐って、珈琲《コーヒー》でも持って来るように、と田舎々々した小娘に吩咐《いいつ》けた。廊下を隔てて勝手の方が見える。働好きな婆さんが上草履《うわぞうり》の音をさせている。小娘は婆さんの孫にあたるが、おせんの行った後で、田舎から呼び迎えたのだ。家には書生も二人ほど置いてある。しかし、おせん時代のことを知っているものは、主人思いの婆さんより外に無かった。婆さんは長く奉公して、主人が食物《くいもの》の嗜好《しこう》までも好く知っていた。
 小娘は珈琲|茶碗《ぢゃわん》を運んで来た。婆さんも牛乳の入物を持って勝手の方から来た。その後から、マルも随《つ》いて入って来た。
「マルも年をとりまして御座いますよ。この節は風邪《かぜ》ばかり引いて、嚔《くしゃみ》ばかり致しております」
 こう婆さんが話した。大塚さんはその日別れた妻に逢ったことを、誰も家のものには言出さなかった。
 マルは尻尾《しっぽ》を振りながら、主人の側へ来た。大塚さんが頭を撫《な》でてやると、白い毛の長く掩《おお》い冠《かぶ》さった額を向けて、狆らしい眼付で彼の方を見て、嬉しそうに鼻をクンクン言わせた。
 こうして家の内を眺め廻した時は、おせんらしいおせんは一番その静かな食卓の周囲《まわり
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