ひがしこんがう》ともいふ。例のテエブルの周圍には、渡邊君、野村君、それに會社側の營業部員や船員などが集まつて話した。渡邊君は岡田汽船會社の專務取締役でもあり、同じ囘漕店の支配人でもあり、境の港町の町會議員をも兼ねてゐるやうな人で、最初私は同君からおそろしく長い肩書の名刺を貰つた時、これはどういふ人かと思つたが、だん/\言葉をかはして見てゐるうちにその男らしい容貌と態度とに心をひかれるやうになつた。磊落《らいらく》で剛膽な渡邊君と、綿密で神經質な野村君とは、二人の體格と服裝とからしておもしろい對照を見せてゐた。旅の空の氣輕さ。私は雲のやうになつて來て、長い間の知り合か何かのやうにこれらの人達と話すことも出來たのである。
野村君もなか/\元氣で私の方を見ながら四方山《よもやま》の話をした。
「どうでせう、美保の關の人間くらゐ古《むかし》を守つてゐるものも、めづらしいでせうな。親代々から鷄も飼はず、孫子に傳へて玉子も食はないなんて、そんなところが他にありませうか。」
「でも、君等だつて他の土地へ行つたら、玉子ぐらゐ食ふでせう。」
私達の側にはこんなことをいつて話を混ぜ返すものもある。
「そりやあお附合で、稀に食ふこともありますがね。どうも後で氣持が惡い。」
この人にいはせると、さういふ昔からの習慣が單に無邪氣な傳説から來てゐるのではなく、あの事代主《ことしろぬし》の神が鷄の鳴聲に欺《だまか》されて、身を危ふくするところであつたといふやうなお伽話からでもなく、實は出雲民族に取つて忘れられない國讓りの日を記念するためであらうとのことであつた。遠い古代のことは想像も及ばない。今はたゞこの地方に遺つてゐる習慣や風俗のみが歴史的な事實を語るかに見えた。
やがて鯛の潮煮などがテエブルの上に運ばれた。野村君は上手な手付で、それを皿に取つてみんなの前に出した。船で味はふ新鮮な魚の手料理もうまかつた。このもてなしには、古川君も鷄二も船醉ひを忘れたらしい。
私達の乘つて行つた岡田丸は、海そうめん、若布《わかめ》などの乾してある海岸の岩の見えるところへ出た。かなたの岩の上には、魚見小屋も見えて來た。船で鳴らす寄港の合圖が港の空高く響き渡ると、小さな盥に乘つて悦ばしさうにこちらへ近づいて來る二人の子供などもあつた。そこは惣津《そうつ》といふ漁村で、隔日に通《かよ》つて來る岡田丸でも待つより外に、交通の便利も少いほどの邊鄙な土地と聞いた。私は曾て何處にも、こんな桃源めいた漁村を見たことがない。靜かに立ち登る煙、鷄の聲、すべてがいかにも平和な感じを與へる。さういふ私の想像して來た出雲浦海岸とは、もつと別の場所であつた。行く先の岬のかげに、こんな仙境が隱れてゐようとは、實に意外であつた。
出雲浦に見逃せないものは、七つ穴と潜戸《くゞりど》の二ヶ所にある大きな洞窟である。山陰道の海岸にある洞窟は、既に浦富の方で私もその深さを探つて見たが、この出雲浦に來て一層自然の力に引き入れられた。七つ穴は西金剛の多古鼻《たこのはな》に近いところにあり、潜戸は加賀の潜戸鼻の尖端に近いところにある。岡田丸に乘つて行けば、いづれもその近くの漁村から觀覽用の小舟を呼ぶことが出來る。
私達はその小舟で七つ穴に近づいて見た。巨大な洞門が、七つまでも海岸の岩壁の間に並んでゐたのには、先づ驚かされた。あたかも十四の石柱と石壁とをそこにうち建てたかのやうにも見える。そのうち東穴は高く、西の穴はまた深くて誰もその奧を究めたものがないといはれてゐるが、一番大きいのは中の穴であつた。「洞窟内に通ずる海水は空氣の如く明澄で、これより麗しい洞窟は世界中殆ど想像し得ない」とは、ラフカヂオ・ハアンがこゝに遊んだ時の言葉と聞く。明るく澄んだ海水を通して見た色さま/″\に奇異な海草は、ちよつとこの世のものとも思はれない。それらの海底は、魅せらるることなしに窺ひ見ることの出來ない鮮かな夢の世界か何かのやうである。西の穴の洞窟内は廣くて奧に渚《なぎさ》もあつた。小舟から降りて、その渚の小石を踏むことも出來た。ちやうど一羽の若い岩燕がその洞窟にある巣から離れて、私達の歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る小石の間に落ちてゐた。雛かと見えて、まだ飛ぶ力がない。同行の一人がそれを拾ひあげた。こゝろみに私も自分の掌に載せて見ると、翼こそまだ延びてゐないが、鋭い爪には蝙蝠[#「蝙蝠」は底本では「蝠蝙」]のやうな力があつた。そこへ鷄二が歩いて來た。動物のすきな鷄二は洋服の隱《かくし》にでも入れて持ち歸りたい樣子であつたが、やがて思ひついたやうに、小石の間へその燕の雛を放した。おそらく親鳥が來て元の巣へ連れ歸るだらう。そんなことを語り合ひながら、また私達は小舟の方へ歸つた。青く澄んだ海水は一方の洞門から他の洞口へと通じてゐて、この深い洞窟の奧を船で一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りすることも出來た。
それにしても、七つ穴とはあまりに殺風景な名だ。岡田丸に戻つてからの私達の間には、その話も出た。その邊の海岸を東金剛、西金剛といふところから、私はそれに因んで、「金剛洞」と呼んで見た。この新しい洞窟の名は、渡邊君はじめ同行の人達を悦ばしたらしい。
船は更に出雲浦を進んで行つた。多古の鼻を過ぐるころには、隱岐《おき》もかすかに望まれた。島前《どうぜん》、島後《どうご》。その二つの島影がそれだ。海路としては、その邊が隱岐への最短の距離にあるといふ。私達は瀬崎の港を通り過ぎた時に、袖掛《そでか》け松なぞに遺《のこ》る後醍醐天皇の故事を聞いたが、今また隱岐の見えるところへ來て、あの島に十數年を送られたといふ後鳥羽院の故事をも聞いた。歴代の天皇の中でも、あの後鳥羽院が伏見院と並んで多くのすぐれた歌を後世まで遺されたといふことも、さうした境涯に激發されたためであつたらうか。歴史上の懷古にもまして旅するものの胸をうつのは、そこに殘つた人間苦である。水平線のかなたはと見ると、海と空とが殆ど同じ色に光つて、午後五時ごろの日が漸く斜に甲板の上に射して來るやうになつた。
新舊二つある潜戸《くゞりど》の洞窟の内へも小舟を進めて見た。殊に新潜戸の方には、美しい傳説が織り込まれてある。伎佐貝比賣《いさかひひめ》の命《みこと》といふ妙齡の女神が愛する男神との間に王子を設け隱れた産家として選んだのがこの海岸の洞窟であるといひ傳へられてゐる。こゝは海の女神の住居であつたといふことも、あながち誇張とのみは思はれない。海の神祕は、それほど凄い美しさで私達をその深い力の中に引き入れる。人はこんなところへ來ると、早く逃げて歸りたいと思ふか、あるひは歸ることを忘れるか、どちらかだ。
同行の人達は次第に半日の船旅に倦んだ。その時になつて見ると一番體格の好い渡邊君の動作が眼につく。精力のさかんな同君は私の側へ來て、いろ/\な土地の話を聞かせたり、海圖をそこへ取寄せて見せたりなぞして、倦むといふことを知らない。私はこの渡邊君に言つて見た。
「一體、この山陰道を裏日本とは、どういふ譯でせう。大陸に向つた海岸の位置からいへば、こつちの方が表日本であつていゝ譯ですね。」
それを聞くと、渡邊君は感慨深い眼付で、私と一緒に海を眺めながら、
「そこですよ。私達のやうな山陰道のものが、日ごろ考へてゐるのもそこですよ。」
と言葉に力を入れてゐた。
江角《えすみ》の港もかなり遠く思はれた。午後の七時ごろには、船から日沒を望んだ。海も岩も次第に色が變つて來た。そろそろ薄暗い空氣の中に、私達は江角の漁港を見た。そこらに立ち登る麥燒きの煙をも見た。定期船としての岡田丸が私達を乘せて行くのも、そこまでだ。私達は朝日丸といふ船の方に移つて、佐多川の掘割から歸路についた。これが日の暮れないうちであつたら、江角にも佐多川の兩岸にも見るべきものが多かつたらうにと惜しい。佐多川から宍道湖に出たころは、そこいらはもう眞暗であつた。嫁ヶ島に近づけば近づくほど湖水は淺し、船の通路にもおほよその定めがあり、暗を動いて行く船の舳には、一點の紅い燈火をつるして、漸く夜の九時ごろに松江へ歸り着いた。
十一 宍道湖の旅情
備後《びんご》入道とは、松江市から見て東南の空に起る夏の雲のことをいふとか。宍道湖《しんじこ》のほとりでは、毎日のやうにその白い雲を望んだ。東京から二百三十三里あまり。私達もかなり遠く來た。山陰道の果てまではとこゝろざして家を出た私も、松江まで來て見ると、こゝを今度の旅の終りとして東京の方へ歸らうかと思ふ心すら起つた。時には旅に疲れて、その中途に立ちすくんでしまひさうにもなつた。このまゝ元來た道を引返すか。海岸に多いトンネルのことを考へると二度と同じ道を通つて暑苦しい思ひをする氣にもなれない。私は米子から岡山へ出る道を取つて、すこしぐらゐ無理でもまだ鐵道の連絡してゐないと聞く山道を越えようかと考へたり、それとも、最初の豫定通り、遠く石見《いはみ》の國の果まで行つて、山陽線を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歸らうかとも考へたりして、そのいづれもが容易でなささうなのに迷つた。
私は鷄二に戲れていつた。
「どうだらう。東京の方へ歸るのを止めて、いつそ松江の人にでもなつてしまはうか。」
しかし、これは私の惡い洒落である。また私は勇氣を起して旅を續ける氣になつた。暑さをも厭はず宿まで來て呉れた太田、古川二君に頼んで、松江の市内にある二つの小學校を訪ねて見ると、折柄教室に並べてあつた兒童の製作もこの地方のことを語り顏であつた。白潟《しらがた》、母衣《ほろ》、私達がしばらく時を送つたのもその二校だつた。母衣の方では學藝會の催しのある日で兒童の遊戲なぞも始まつてゐた。私も子供は好きだ。長い廊下を挨拶して通る少年でも呼び留めて、いろ/\と言葉をかはして見たく思つたが、時と場合がそれを許さなかつた。私達は連立つて、北堀といふところに小泉八雲の舊居をも訪ねた。舊くはあるが床《ゆか》しい家中《かちゆう》屋敷で、庭に咲く百日紅《さるすべり》、花はないまでも桔梗、芍藥なぞ、この地方の夏はそこにも深いものがあつた。主人も心ある人と見えて、質素な書齋の襖から櫛形の窓まで、明治初年の昔からあるものを何一つ置き換へることもなしに清潔に住みなしてある。故人が愛したと聞く池の蓮も、この記念の家を靜かに見せてゐた。
千鳥城はこの山陰地方で天守閣を保存する唯一の城址である。そこへも訪ねて行つて見ると、寄せ木の太い柱を鐵の板で堅めてある天守閣の内部は、武裝を解かれて休息してゐる建物か何かのやうであつた。ところ/″\に蟲ばんだ柱を見るが、堅牢な感じを失はない。往昔、堀尾吉晴によつて築かれ、小瀬甫庵《をぜほあん》の繩張りによるといはれるのもこの城だ。五層ほどもある高い建物の位置からは松江の市街がよく見えた。天狗、星上《ほしかみ》、茶臼の山々から、伯耆の大山までが呼べば答へるやうな眺望のよい位置にある。あの大雅堂のやうな人がこの地方へ旅して來た昔に、宍道湖にひゞく古鐘の音に聞きほれて、半年も歸ることを忘れたといふ天倫寺の屋根も、そこから見渡される。その古鐘こそ朝鮮から渡來したものと聞くが、未だに古い響を湖水に傳へてゐるかどうかは知らない。
千鳥城から見える星上山は私達の宿からも見える。この山陰の旅には私もいろ/\な望みをかけて、日本最古の地方の一つを踏んで見るといふだけでも樂しみにして來た。出來ることなら、海岸ばかりでなしにもつと山地の方まで入つて行つて、古代の人が、現世と黄泉《よみ》の國との境であると想像したといふ出雲の伊賦夜坂《いぶよさか》(比良坂《ひらさか》)のあたりを歩いて見たらばと思つて來た。比婆山《ひばさん》の位置もはつきりしないとは聞くが、もしそんなところまで行くことが出來て、あの伊邪那美の神の墳墓の地を見たらばとも思つて來た。眼にある星上山の向うには、その比婆山《ひばさん》も隱れてゐるといふことであつた。こゝは古代の大陸との交通を想像させるばかりでな
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング