く、もつと古い神話にまで遡るなら、天地創造の初發の光景にまで、人の空想を誘ふやうなところだ。こゝは豐かな傳説の苗代《なはしろ》だ、おもしろい童話の作者でも生れて來さうなところだ。こゝは神祕なくらゐに美しい海が、その祕密をひらく若者を待つてゐる。新しい海の詩人でも生れて來さうなところだ。
 舊暦十八日ばかりの夏の月が射し入つた晩は、私達は宿の二階にゐてすゞんだ。松江中學の端艇競漕があつた日で、賑かな舟唄は湖上に滿ちてゐた。空氣は清く澄んで殊に水郷の感じが深い。青白い光を放つ夜の空もよく晴れた。星も稀ではあるが、あるものは紅くあるものは青く、天心に近づくほど暗いところに懸つてゐた。月あかりに鳴くかすかな蟲の聲さへ聞えて來るやうな、そんな良い晩だ。
「これで涼しい風があれば、申し分はないがなあ。」
 鷄二はそれを言つて、宿の若主人を相手に舟を出し、そこいらを一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして歸つて來た。晝より暑いくらゐで、夜遲く石垣の下に出て、そこに繋いである舟に乘りながら涼むものもあつた。さすがに水邊の宿だ。無數の蟲は部屋の電燈をめがけて群れ集まつて來た。それを見ただけでも
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