の人となつた。
下夜久野《しもやくの》の驛まで行つた。たま/\汽車の窓から舞ひ込んでくる氣まぐれな蜂などがあつて、そんな些細な事も車中の人達の無聊をなぐさめた。その邊から上夜久野《かみやくの》へかけては、山家らしい桑畑の多いところだ。ところ/″\に成長する芭蕉や棕梠をも見る。信州あたりの耕地を見慣れた眼には、田植に使はれてゐる牛を見かけるのもめづらしい。鷄二は私にいつた。「今頃、田植をやつてる。七月に入つてから田植なんてことはないよ。よつぽど水がなかつたんだね。」
そこいらに出て働いてゐる男や女がゆく先で私達の眼につくのも、鷄二の兄の楠雄が同じ農業に從事してゐるからで。私達がその邊の田舍を窓の外に眺めながら乘つてゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂《みさか》から落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。
山陰らしい特色のある眺めが次第に私達の前に展開するやうになつた。何となく地味も變つて來て、ところ/″\に土の色の赤くあらはれたのが眼につく。滴るばかりの緑に包まれた崖も、野菜のつくつてある畑も赤い。この緑と赤の調和も好い。關東地方の農家を見慣れた眼には、特色のある草屋根の形
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