して行かう。それを私は鷄二にも話して、その日一日は宿で暮すことにした。思ひ做《な》しの故《せゐ》か、袖ヶ浦の向うに見える一帶の山々までが横になつて、足でもそこへ投げ出してゐるかのやうでもある。それがのんびりとした感じを人に與へる。旅の私にまで、先づ休んで行け、といつてゐるやうにも見える。淡水湖と聞く宍道湖の水は、山上の湖水のやうに重苦しくなく、海のやうに激しい變化もない。湖上に波の騷がない日はないとも聞く嚴冬の季節は知らないこと、今は自然も休息してゐる時である。
連れの鷄二はかういふ日だとばかり、かねて用意して來た畫布なぞを、廊下のところに取り出し、おもしろく造つてある庭の一部から湖水まで、餘念もなくその畫面のうちに取り入れてゐた。そこでは庭の砂の色まで明るい。無果花《いちじく》の枝に小さな浴衣なぞの掛けて乾かしてあるのも、宿の女の兒達の着るものかと見えて愛らしい。
「なんだか、こゝへ來ると好い氣持になつてしまふね。」
時々鷄二は、そんなことをいつて、描《か》きかけの繪筆もそこに投げ捨て、庭から岸の石垣の方へ降りて行つた。泳ぎか、舟か、暇さへあれば鷄二は湖水に出て遊んだ。
「父さん
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