しい方面しかありません。夏を見たばかりで、ほんたうの山陰らしい特色を味はつて頂いたとはいへないかも知れません。」
 松江を生れ故郷とする太田君の答は、私の待ち受けた通りでもあつた。同君は慶應出身とやらで、思ひがけないところで水上瀧太郎君や久保田万太郎君の噂も出た。いろ/\な話の末に、柏原まで一茶の生地を訪ねに行つた時のことも出、その時に信濃路を旅して見たことも出て、信州人と出雲人との間には何處かに共通したもののあることを私に話し聞かせたのもこの太田君だ。
「お疲れでせうから、いづれまた。」
 明日を約束して兩君は歸つて行つた。その後で、私は太田君の殘して置いて行つた話を思ひ出して湖水に浮ぶ大橋の方を望んで見た。私達が泊つた宿の二階の位置は、向うの橋の上を通る男や女の下駄の音を聞くほどの距離にある。毎年の盆の季節が來ると、草市はその長い橋の上に立つ。太田君は草市の翌朝に通つて見て、まだ草の香りがそこに殘つてゐた時のことを忘れがたいといつた。
 連日の旅で、私達の着るものはひどく汗になつた。着更へのワイシヤツなども三日とは肌に着けられなかつた。それほど暑さに苦しんだ。せめて松江ではゆつくり
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