」
「いや、僕はさう思はないね。お客さまの好きなものもあれば、嫌ひなものもある。宿屋ではそこまでは分らないだらう。だからいろ/\なものをそこへ並べて出せば、お客さまは自分の好きな物を喰ふ。お父さんのやうな人ばかりがお客さまぢやないからね。」
「お前のいふことも、一理窟あるかナ。」
こんな話も旅らしい。
この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水に映つて、岸から垂れさがる長い柳の影もすゞしい。私達の眼にある光と影とで、朝の湖水らしくないものはなかつた。何を見ても眼がさめるやうであつた。舟のすきな鷄二は石垣の下に繋いである宿の小舟を見つけ、早速宿の主人に交渉して、朝のうちにそこいらを漕ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來た。まだ朝飯には間があつた。私も鷄二と一緒に舟で宍道湖の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出したこともある。舟も何年振りか。それを私も思ひ出して自分でも櫓《ろ》をあやつりながら嫁ヶ島の方角をさして漕ぎ出して見ると、思つたよりもその邊の水の淺いことも分つた。澤山な蜻蛉《とんぼ》の群は水の上を飛
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