はれる。かういふ都會をよく見ることはむづかしい。
 過ぐる幾十年、ゆつくりとしかも確かな足取りで歩いて來た町を、山陰方面に求めるなら、誰しもまづ鳥取をその一つに數へよう。土地の人達は急がうとしても、急ぎ得なかつたその原因を、主として千代川《せんだいがは》の氾濫に歸する。案内記によると、天文十三年このかた、三百八十年の間に四十八囘の大洪水に襲はれたといふ。いひかへれば、この地方は八年に一囘の大洪水に襲はれ、市民の生活はその都度破壞されて行くといふ慘澹たる状態にあつたとのことである。それほど自然と戰ひ續けて來たその地方の人達に、何かかう地味な根強さがあるやうに感じられるといふのも、不思議はないかも知れない。
 その晩は、私は鷄二と二人で葉茶屋、古道具屋が目につき、柳行李を賣る店なぞも目につく、宿の附近から明るい町の方まで歩いた。三八の夜の賑はひとかで、夕涼みらしい土地の人達の風俗が、行くさきに見られた。旅に來て、知らない男や女の間に交るといふことも、樂しかつたのである。その翌朝は、また私は早く起き、宿の浴衣、宿の下駄でそこいらの町町を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。深い
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