旅に來て名づけ親になるといふことも何かの縁かと私もうれしく思つた。紙なぞを取りよせて、そのことを書きつけ、この世によい種をまく人とも成るやうにとの意味から、種夫といふ名を選んで贈つた。にはかに空が曇つて遠くでは雷鳴の音さへ聞えたのに、岡田君も鷄二もなか/\歸りさうもない。そのうちに涼しい風が二階へ吹き滿ちて來た。庭の青桐へは夕立のくる音もした。
新らしい旅館は鳥取にいくらもある。温泉宿も多いと聞く。さういふ中で、私達が小錢屋のやうな古風な宿屋に泊つたのは、旅の心も落着いてよからう、といふ岡田君の勸めもあつたからで。旅人としての私は、僅か二日位の逗留の豫定で、山陰道での松江につぐの都會といはれるやうなところに、どう深く入つて見ようもない。こゝは三十五萬石からの舊い城下、縣廳の所在地、戸數七千、人口三萬五六千もある。賀露《がろ》の港を一里ばかりさきに控へ、三つの街道が市内の中を貫いてゐるやうなところだ。なるほどこゝは名高い市場もあり、物産の陳列館もあり、いろ/\な建物も見るべきものも多いやうであるが、鳥取の特色はさういふ表面に現はれたものよりも、むしろ隱れて見えないところにあるやうに思
前へ
次へ
全110ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング