たつた。人力車の時代は既に過ぎて、全國的な自動車の流行がそれに變りつゝある。こんな餘事までも考へながら、前の日に一臺の自動車で鳥取の停車場前から乘つて來た私達はその車に旅の手荷物を積み、浦富からずつと一緒の岡田君とも同乘で、山陰道でも屈指な都會の町の中へはじめて來て見る思ひをした。私達は右を見、左を見して、自動車で袋川を渡つて來た。まだ流行の全集本が地方の豫約募集を終りきらないころで、祭禮のやうに紅い旗が往來の人の眼をひいてゐた。私達はかごをかついで通る魚賣りなぞの眼につくやうな、町の空氣の濃いところへ來て、古めかしい石の門のある宿屋の前で車から降りたが、そこが岡田君の案内してくれた小錢屋であつた。
七月の十一日は、私はすこし腹具合を惡くしてゐたので、旅疲れのしたからだを一日休めることにした。ちやうど私達は宿で赤兒の生れたところへ泊り合せて、ほとんど自分等二人きりで風通しのよい二階の座敷を占領したやうな形であつた。客もすくない二階の表廊下へ出ると、めづらしい實を結んだ棕梠の庭樹の間から、鳥取の町の空が見えた。今をさかりと咲き誇る夾竹桃《けふちくたう》の花の梢も夏らしいやうな裏の廊下の
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