食事後に、栗村君はすゞりと筆と白扇とを取りよせ、その日の記念にと私に揮毫を求められた。つたない筆の跡を臆面もなく殘して行くやうで、私も心苦しかつたが、強ひて辭退するのもどうかと思つて、求めらるゝまゝに白扇をひろげて見た。その時、旅のかばんの中に白の畫箋紙の片のいれてあつたことを思ひだした。それは鷄二が鉛筆ばかりでなしに、筆と墨で寫生を試みたい場合もあらうかといつて東京から持つて來たものだ。私は書きにくい白扇よりも、その紙片の方を選んで、日頃好きな芭蕉の言葉の中から一つ二つを書いて贈ることにした。
「余が風雅は夏爐冬扇のごとし、衆に逆《さか》ひて用ふるところなし。」
 熱い汗は私の顏に流れた。
 栗村君は今の町長をつとめる前に水産學校の校長として教育事業にたづさはつた時代もあつたと聞く。私は始めてこの人に逢つた時から、眉の長く眼もとの涼しい容貌に心をひかれ、その毅然たる態度にも心をひかれたが、だん/\話してゐるうちに、この町長が學問のある譯もわかつた。同君には七人もの子があることをも知つた。學生が法廷に立つといふ今の時代に、一人の子息さんを大學の法文科に學ばせ、他の子息さん達を高等學校そ
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