がら歌ふ。うたの拍子は湯をうつ柄杓の音から起る。きぬたでも聽くやうで、野趣があつた。この湯かむり歌もたしかに馳走の一つであつた。山間とはいひながら、かうした宿でも蚊帳を吊つたので、その晩は遲くなつてから鷄二と二人蚊帳のなかに枕を並べて寢た。

    五 浦富海岸

 浦富《うらどめ》の海岸に出た。
 七月の十日は早く岩井の宿を發《た》つて來て、浦富海岸で時を送ることにした。浦富の栗村君は始めて逢つた人だが、前の晩にわざ/\岩井の宿まで見えて、海岸の好いことを話されるので、私もその方に心が動いたのである。
 浦富は、桐山城址のある四百戸ばかりの町で、山陰線の岩美驛から海の方へ寄つたところにある。山陰方面には海水浴場の地としても知られてゐる。驛から乘合自動車の便もある。栗村君はそこの町長で、私達のために船を出す用意までして待ちうけてゐてくれた。私としては、既に瀬戸や香住の山の上から望んで來た日本海の方へもつと近く出ていつて見るといふ樂しみがあり、この附近の海岸を船で見て囘るといふ樂しみがあつた。長いこと東京麻布の町の中に暮しつゞけて來た私は、自分の都會生活が自然に遠ければ遠いほど、餘計に
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