だ、案内ついでに、岩井まで見送らうではないかと、若主人はいつて、また一緒に汽車に乘つた。香住から五つ目の驛に岩美の停車場があつて、そこまで乘つてゆくと但馬の國を離れる。縣も鳥取と改まる。岩美から岩井の村までは平坦な道で、自動車に換へてからの乘心地も好かつた。
 日の暮れる頃に、岩井に着いた。思つたほどの山の中ではなかつたが、しづかな田舍の街道に沿うたところに、私達の泊つた明石屋の温泉宿があつた。そこは因幡國《いなばのくに》のうちだと思ふだけでも、何となく旅の氣分を改めさせた。湯も熱かつたが、しかし入り心地はわるくなかつた。その晩は夏らしい月もあつて、宿の裏二階の疊の上まで射し入つた。庭にある暗い柿の葉も、ところ/″\月に光つて涼しい。東京の方の留守宅のこともしきりに胸に浮ぶ。鷄二も旅らしく、宿の繪葉書などを取りよせた。
「どれ、楠《くう》ちやんのところへ葉書でも出すかナ。」
「東京へもお前に頼む。」
 旅の頼りも鷄二が私に代つて書いた。私はまた宿の主人に所望して、土地での湯かむり歌といふものを聽かせてもらつた。いつの頃からのならはしか、土地の人達は柄杓《ひしやく》ですくふ湯を頭に浴びな
前へ 次へ
全110ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング