があつて、その人の心からこの寺に保存されてあるやうな應擧の作品の生れて來たといふことは、その一つである。こゝには應擧の作品ばかりでなく、彼の友達の畫もあり、彼の弟子達の繪もあつて、圓山派一門の美術家の親しみがいかにもよく感じられるといふことも、その一つである。應擧はその若く貧しかつた時代に密英上人から寄せられた厚意と友情とを忘れないで、呉春、蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを描きに來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られてゐたらう。さういふ私なども半生の旅の多くは關東方面に限られてゐて、この年になるまで大乘寺の名さへも聞かなかつた。かういふ寺を山陰道の田舍に置いて考へることも、しかし樂しい。應擧の作品についても、私は今日まで僅かしか知る機會を持たなかつたが、來て見て動かされた。
 この寺の内部は、佛殿を中心にした十一の部屋と、それに附屬した二つの部屋と、別に二階にある二つの部屋とから成り立つ。そのうちの十三の部屋が圓山派一門の畫で滿たされてゐる。寺としての設計も
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