く、もつと古い神話にまで遡るなら、天地創造の初發の光景にまで、人の空想を誘ふやうなところだ。こゝは豐かな傳説の苗代《なはしろ》だ、おもしろい童話の作者でも生れて來さうなところだ。こゝは神祕なくらゐに美しい海が、その祕密をひらく若者を待つてゐる。新しい海の詩人でも生れて來さうなところだ。
 舊暦十八日ばかりの夏の月が射し入つた晩は、私達は宿の二階にゐてすゞんだ。松江中學の端艇競漕があつた日で、賑かな舟唄は湖上に滿ちてゐた。空氣は清く澄んで殊に水郷の感じが深い。青白い光を放つ夜の空もよく晴れた。星も稀ではあるが、あるものは紅くあるものは青く、天心に近づくほど暗いところに懸つてゐた。月あかりに鳴くかすかな蟲の聲さへ聞えて來るやうな、そんな良い晩だ。
「これで涼しい風があれば、申し分はないがなあ。」
 鷄二はそれを言つて、宿の若主人を相手に舟を出し、そこいらを一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして歸つて來た。晝より暑いくらゐで、夜遲く石垣の下に出て、そこに繋いである舟に乘りながら涼むものもあつた。さすがに水邊の宿だ。無數の蟲は部屋の電燈をめがけて群れ集まつて來た。それを見ただけでも、寢苦しい。その晩は私も縁先の籐椅子にもたれて、湖水に聲のなくなるほど遲くまで起きてゐた。

    十二 菅田庵を訪ふ

 松江の郊外にある菅田庵《すがたあん》は、不昧公が遺愛の茶室で知られてゐる。松江における不昧公の位置は、白河における樂翁公のそれを思ひ出させる。
 松江を去る前の日の午前に、私達は太田、古川二君に導かれて菅田庵を訪ねた。その時は私達の宿の親戚にあたる松影堂の主人とも同道した。柿谷といふところにある有澤氏の山莊がそれで、昔の人達が魂を休めに行くためにあつたやうな村里の片ほとりに隱れてゐた。
 山莊の入口にある小徑はかなり長かつた。私は曾てこんな樂しい小徑をふんだことがない。そこを踏むばかりでも、ひとりでに私達の心は澄んで行くのを覺える。古い池がある。竹の林がある。淺い谷間の地勢がその一方にひらけて、茄子畠の向うには遠く鷄の聲を聞く。その邊の土の色の赤さは驚くばかりだ。日のあたつた赤い茄子畠は繪にでもしたらと思ふばかりに美しい。苔蒸した坂道に添うて楓の樹の多い小山に出ると、さゝやかな枝折戸がある。今の主人はそこに草履などを用意して、私達を迎へてくれた。靴を草履にはきかへて、庭石を踏むといふだけでも、何となく私達の心は改まつた。
 私達の訪ねて行つたところは、この小山の上に立つ二棟の簡素な平屋を、庭もろとも一つの意匠に纏めたやうな場所であつた。客の休息所に宛てたお待屋の方には、雨傘ほどの大きさの笠が眼についた。雨に雪に、お待屋から茶の室の方へ通ふ客のためにあるものとみえて、細心な茶人の用意はそんなところにも窺はれる。茶室には二疊と四疊半との二部屋があつて、私達は先づ二疊の方の狹い窓のやうな入口から入つた。海邊の漁夫の寢るだけにあるような住居の入口から、こんな茶人の意匠が生れて來てゐるといふこともおもしろい。水屋を通つて、四疊半の方に出た。向月庵とした額の掛つた茶室がそこだ。私達は思ひ/\に、疊を敷いた縁《えん》のところにゐ、その外にある板敷の縁のところにもゐて、すゞしい蝉の聲に暑さを忘れた。庭に置いた石も省けるだけ省いて、庭先にある二本の古松と山々の眺めとを廣く取入れてある。山郭公《やまほとゝぎす》なども啼いて通りさうなところだ。こゝへ來て見ると、簡素を求めた昔の人の心が感じられる。私は不昧公のことをいふついでに、白河樂翁を引合に出したが、この比較は當つてゐないかも知れない。たゞ二人とも徳望のあつたといふ點でのみ、それがいへるかも知れない。藝術上の惠まれた天分にかけては、不昧公は遙に樂翁公の上にあらう。
 有澤氏の山莊には、別に不昧公の意匠になつたといふ明々庵が他から移されてあつた。山の横手のところには、山櫻の多い谷を前にした小茶屋もあつた。樅《もみ》、松、楓などの外に、椎の木の多いことも樹蔭の道を樂しく見せてゐた。
 松江の宿に歸つてからの私達はまた翌日の旅支度にいそがしかつた。松江には七月の十四日から十七日までゐた。旅の記念にと書き盡せないほどの色紙などを、この地方の人達からも持ち込まれ、宿の女中にまで何か書けとせがまれては、午後からも殆ど休むいとまがなかつた。成るべく手荷物も少くと思ふところから、白潟、母衣《ほろ》の二校から貰ひ受けて來た兒童の製作品、圖畫、作文、手工の竹の箸、それに松江土産の箱枕などは留守宅宛の小包にした。そこいらには、ある人々へ贈りたいと思つて取寄せた不昧公好みの煙草盆が殘つてゐた。それもこゝから荷造りして出すことにした。こんなに取りちらしてゐるところへ宿の女中が客のあることを知らせに來た。ずつと以前の同
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