で、私と一緒に海を眺めながら、
「そこですよ。私達のやうな山陰道のものが、日ごろ考へてゐるのもそこですよ。」
 と言葉に力を入れてゐた。
 江角《えすみ》の港もかなり遠く思はれた。午後の七時ごろには、船から日沒を望んだ。海も岩も次第に色が變つて來た。そろそろ薄暗い空氣の中に、私達は江角の漁港を見た。そこらに立ち登る麥燒きの煙をも見た。定期船としての岡田丸が私達を乘せて行くのも、そこまでだ。私達は朝日丸といふ船の方に移つて、佐多川の掘割から歸路についた。これが日の暮れないうちであつたら、江角にも佐多川の兩岸にも見るべきものが多かつたらうにと惜しい。佐多川から宍道湖に出たころは、そこいらはもう眞暗であつた。嫁ヶ島に近づけば近づくほど湖水は淺し、船の通路にもおほよその定めがあり、暗を動いて行く船の舳には、一點の紅い燈火をつるして、漸く夜の九時ごろに松江へ歸り着いた。

    十一 宍道湖の旅情

 備後《びんご》入道とは、松江市から見て東南の空に起る夏の雲のことをいふとか。宍道湖《しんじこ》のほとりでは、毎日のやうにその白い雲を望んだ。東京から二百三十三里あまり。私達もかなり遠く來た。山陰道の果てまではとこゝろざして家を出た私も、松江まで來て見ると、こゝを今度の旅の終りとして東京の方へ歸らうかと思ふ心すら起つた。時には旅に疲れて、その中途に立ちすくんでしまひさうにもなつた。このまゝ元來た道を引返すか。海岸に多いトンネルのことを考へると二度と同じ道を通つて暑苦しい思ひをする氣にもなれない。私は米子から岡山へ出る道を取つて、すこしぐらゐ無理でもまだ鐵道の連絡してゐないと聞く山道を越えようかと考へたり、それとも、最初の豫定通り、遠く石見《いはみ》の國の果まで行つて、山陽線を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歸らうかとも考へたりして、そのいづれもが容易でなささうなのに迷つた。
 私は鷄二に戲れていつた。
「どうだらう。東京の方へ歸るのを止めて、いつそ松江の人にでもなつてしまはうか。」
 しかし、これは私の惡い洒落である。また私は勇氣を起して旅を續ける氣になつた。暑さをも厭はず宿まで來て呉れた太田、古川二君に頼んで、松江の市内にある二つの小學校を訪ねて見ると、折柄教室に並べてあつた兒童の製作もこの地方のことを語り顏であつた。白潟《しらがた》、母衣《ほろ》、私達がしばらく時を送つたのもその二校だつた。母衣の方では學藝會の催しのある日で兒童の遊戲なぞも始まつてゐた。私も子供は好きだ。長い廊下を挨拶して通る少年でも呼び留めて、いろ/\と言葉をかはして見たく思つたが、時と場合がそれを許さなかつた。私達は連立つて、北堀といふところに小泉八雲の舊居をも訪ねた。舊くはあるが床《ゆか》しい家中《かちゆう》屋敷で、庭に咲く百日紅《さるすべり》、花はないまでも桔梗、芍藥なぞ、この地方の夏はそこにも深いものがあつた。主人も心ある人と見えて、質素な書齋の襖から櫛形の窓まで、明治初年の昔からあるものを何一つ置き換へることもなしに清潔に住みなしてある。故人が愛したと聞く池の蓮も、この記念の家を靜かに見せてゐた。
 千鳥城はこの山陰地方で天守閣を保存する唯一の城址である。そこへも訪ねて行つて見ると、寄せ木の太い柱を鐵の板で堅めてある天守閣の内部は、武裝を解かれて休息してゐる建物か何かのやうであつた。ところ/″\に蟲ばんだ柱を見るが、堅牢な感じを失はない。往昔、堀尾吉晴によつて築かれ、小瀬甫庵《をぜほあん》の繩張りによるといはれるのもこの城だ。五層ほどもある高い建物の位置からは松江の市街がよく見えた。天狗、星上《ほしかみ》、茶臼の山々から、伯耆の大山までが呼べば答へるやうな眺望のよい位置にある。あの大雅堂のやうな人がこの地方へ旅して來た昔に、宍道湖にひゞく古鐘の音に聞きほれて、半年も歸ることを忘れたといふ天倫寺の屋根も、そこから見渡される。その古鐘こそ朝鮮から渡來したものと聞くが、未だに古い響を湖水に傳へてゐるかどうかは知らない。
 千鳥城から見える星上山は私達の宿からも見える。この山陰の旅には私もいろ/\な望みをかけて、日本最古の地方の一つを踏んで見るといふだけでも樂しみにして來た。出來ることなら、海岸ばかりでなしにもつと山地の方まで入つて行つて、古代の人が、現世と黄泉《よみ》の國との境であると想像したといふ出雲の伊賦夜坂《いぶよさか》(比良坂《ひらさか》)のあたりを歩いて見たらばと思つて來た。比婆山《ひばさん》の位置もはつきりしないとは聞くが、もしそんなところまで行くことが出來て、あの伊邪那美の神の墳墓の地を見たらばとも思つて來た。眼にある星上山の向うには、その比婆山《ひばさん》も隱れてゐるといふことであつた。こゝは古代の大陸との交通を想像させるばかりでな
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