より外に、交通の便利も少いほどの邊鄙な土地と聞いた。私は曾て何處にも、こんな桃源めいた漁村を見たことがない。靜かに立ち登る煙、鷄の聲、すべてがいかにも平和な感じを與へる。さういふ私の想像して來た出雲浦海岸とは、もつと別の場所であつた。行く先の岬のかげに、こんな仙境が隱れてゐようとは、實に意外であつた。
出雲浦に見逃せないものは、七つ穴と潜戸《くゞりど》の二ヶ所にある大きな洞窟である。山陰道の海岸にある洞窟は、既に浦富の方で私もその深さを探つて見たが、この出雲浦に來て一層自然の力に引き入れられた。七つ穴は西金剛の多古鼻《たこのはな》に近いところにあり、潜戸は加賀の潜戸鼻の尖端に近いところにある。岡田丸に乘つて行けば、いづれもその近くの漁村から觀覽用の小舟を呼ぶことが出來る。
私達はその小舟で七つ穴に近づいて見た。巨大な洞門が、七つまでも海岸の岩壁の間に並んでゐたのには、先づ驚かされた。あたかも十四の石柱と石壁とをそこにうち建てたかのやうにも見える。そのうち東穴は高く、西の穴はまた深くて誰もその奧を究めたものがないといはれてゐるが、一番大きいのは中の穴であつた。「洞窟内に通ずる海水は空氣の如く明澄で、これより麗しい洞窟は世界中殆ど想像し得ない」とは、ラフカヂオ・ハアンがこゝに遊んだ時の言葉と聞く。明るく澄んだ海水を通して見た色さま/″\に奇異な海草は、ちよつとこの世のものとも思はれない。それらの海底は、魅せらるることなしに窺ひ見ることの出來ない鮮かな夢の世界か何かのやうである。西の穴の洞窟内は廣くて奧に渚《なぎさ》もあつた。小舟から降りて、その渚の小石を踏むことも出來た。ちやうど一羽の若い岩燕がその洞窟にある巣から離れて、私達の歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]る小石の間に落ちてゐた。雛かと見えて、まだ飛ぶ力がない。同行の一人がそれを拾ひあげた。こゝろみに私も自分の掌に載せて見ると、翼こそまだ延びてゐないが、鋭い爪には蝙蝠[#「蝙蝠」は底本では「蝠蝙」]のやうな力があつた。そこへ鷄二が歩いて來た。動物のすきな鷄二は洋服の隱《かくし》にでも入れて持ち歸りたい樣子であつたが、やがて思ひついたやうに、小石の間へその燕の雛を放した。おそらく親鳥が來て元の巣へ連れ歸るだらう。そんなことを語り合ひながら、また私達は小舟の方へ歸つた。青く澄んだ海水は一方の洞門から他の洞口へと通じてゐて、この深い洞窟の奧を船で一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りすることも出來た。
それにしても、七つ穴とはあまりに殺風景な名だ。岡田丸に戻つてからの私達の間には、その話も出た。その邊の海岸を東金剛、西金剛といふところから、私はそれに因んで、「金剛洞」と呼んで見た。この新しい洞窟の名は、渡邊君はじめ同行の人達を悦ばしたらしい。
船は更に出雲浦を進んで行つた。多古の鼻を過ぐるころには、隱岐《おき》もかすかに望まれた。島前《どうぜん》、島後《どうご》。その二つの島影がそれだ。海路としては、その邊が隱岐への最短の距離にあるといふ。私達は瀬崎の港を通り過ぎた時に、袖掛《そでか》け松なぞに遺《のこ》る後醍醐天皇の故事を聞いたが、今また隱岐の見えるところへ來て、あの島に十數年を送られたといふ後鳥羽院の故事をも聞いた。歴代の天皇の中でも、あの後鳥羽院が伏見院と並んで多くのすぐれた歌を後世まで遺されたといふことも、さうした境涯に激發されたためであつたらうか。歴史上の懷古にもまして旅するものの胸をうつのは、そこに殘つた人間苦である。水平線のかなたはと見ると、海と空とが殆ど同じ色に光つて、午後五時ごろの日が漸く斜に甲板の上に射して來るやうになつた。
新舊二つある潜戸《くゞりど》の洞窟の内へも小舟を進めて見た。殊に新潜戸の方には、美しい傳説が織り込まれてある。伎佐貝比賣《いさかひひめ》の命《みこと》といふ妙齡の女神が愛する男神との間に王子を設け隱れた産家として選んだのがこの海岸の洞窟であるといひ傳へられてゐる。こゝは海の女神の住居であつたといふことも、あながち誇張とのみは思はれない。海の神祕は、それほど凄い美しさで私達をその深い力の中に引き入れる。人はこんなところへ來ると、早く逃げて歸りたいと思ふか、あるひは歸ることを忘れるか、どちらかだ。
同行の人達は次第に半日の船旅に倦んだ。その時になつて見ると一番體格の好い渡邊君の動作が眼につく。精力のさかんな同君は私の側へ來て、いろ/\な土地の話を聞かせたり、海圖をそこへ取寄せて見せたりなぞして、倦むといふことを知らない。私はこの渡邊君に言つて見た。
「一體、この山陰道を裏日本とは、どういふ譯でせう。大陸に向つた海岸の位置からいへば、こつちの方が表日本であつていゝ譯ですね。」
それを聞くと、渡邊君は感慨深い眼付
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