じ學窓の縁故から、私なぞから見れば、先輩に當る人が、土地の話を持つてわざ/\逢ひに來てくれたといふこともなつかしい。その時は太田君も一緒で、湖水から吹き入る風の涼しいところで話した。四方山の話の末に、これから私達が向はうとする石見《いはみ》地方のことが出た。そこには人麿の遺蹟のあることなぞから、あの昔のすぐれた歌人も役目としては、せい/″\國守か郡守ぐらゐのところであつたらう、そんな話が出た。客もなか/\話ずきな人で、そのうちに鋭い鋒先を太田君の方にまで向けて、「太田君も商業會議所の書記長ぐらゐに止めて、それ以上の榮達は望まない方がようござんすぜ。昔から高位高官に登つたやうな人に、そんなにおもしろい人も見當りませんぜ。」
 こんな話も旅らしい。しばらく私の心は書生の昔に歸つて行つた。その晩は客で取り込んだ。古川君を送つた後には、その日東京から着いたといふ畫家の小山周次君を迎へた。この小山君は小諸出身で、私とは舊い馴染だ。同君は大社まで私達と同道しようといつて、翌日の朝を約束して別れて行つた。四日ばかりの滯在は短かつたけれども、しかし私達はこの松江の宿に來て、直入《ちよくにふ》の蟹の額などの掛かつた氣持のよい部屋に旅寢することを樂しみにした。この五月あたりに東京から有島生馬君が見えて私達と同じ部屋に泊つて行つたと聞くこともうれしかつた。さういふ私達も、二度とかうした旅に來て見る機會があらうとは、ちよつと思はれない。この地方の木枯が吹いて、海蛇が岸に上るといふ「お忌荒《いみあ》れ」の季節からは、そろ/\自然の活動が始まるといふが、さういふ山陰の特色の最もよくあらはれる頃などを選んで、わざ/\再遊を試みるやうな機會があらうとは猶々思はれない。
 七月の夜は明け易かつた。翌十八日の朝には私は早く起きて、古川君、太田君、その他の人達にも別れを告げて行く支度を始めてゐた。私は遠く紫色を帶びた星上山から、まだ朝靄に包まれてゐるやうな松江の町々までもよく見て行かうとした。

    十三 杵築《きづき》より石見《いはみ》益田《ますだ》まで

 杵築に着いた。
 山陰道の西部をさして松江を辭した私達は、出雲を去る前に今市から杵築に出た。杵築までは、松江で一緒になつた小山君とも同道した。こゝは島根半島の西端に近いところで、日の御崎へもさう遠くない。出雲の大社のあるところだ。
 子供の時分の記憶をたどると、俗にいふ大黒さまとお夷《えびす》さまとが私の生れた木曾の山家などにも飾つてあつたのを覺えてゐる。幼い時分の私の眼には、俵をふまへた大黒さまと釣竿をかついだお夷さまの姿が映るのみで、その俵が何を意味し、その釣竿が何を意味するかをも知らなかつた。あの大國主の神が農業の祖神であり、事代主《ことしろぬし》の神が漁業の祖神であることが分つて見ると、俵をふまへ釣竿をかついだ、父子二神の姿も讀めて來る。私はこの出雲地方を旅して見て、豐かな頬と、廣い眉間と、濃い眉とを行く先に見つけた。あの夷大黒としてよくある彫刻などに見る神の顏の特徴は、やがてそれが純粹な出雲民族[#「民族」は底本では「民旅」]の特徴であることを知つた。
「笑」をあらはした神像といふやうなものが他にもあるかどうか、私はよく知らない。すくなくも大黒さまとお夷さまとにはそれがあらはしてある。何といふ平易で通俗な神像だらう。何といふ親しみ易い笑顏だらう。人も知るごとく、信濃にある諏訪神社の祭神|建御名方《たけみなかた》の神は、事代主の神と共に、大國主の神の子であつて、國讓りの當時信濃の方に亡命せられたのである。事代主の神は父大國主の神の和魂《にぎたま》をうけつぎ、建御名方の神は同じ父神の荒魂《あらたま》をうけついだといはれてゐる。當時の出雲民族は古代文化の中堅の一つであつて、その勢力は南は紀伊に及び、中央から北は越後信濃にまで及んでゐたといふくらゐだ。剛健勇邁な建御名方の神が亡命の心事は今からでもそれを想像するに難くない。それに比べると、大國主の神はどこまでも平和の神であり、當時の平和論者なる事代主の神の意見を容《い》れて、國讓りの難局に處せられたのであらう。退いて民に稼穡《かしよく》の道を教へたといはれる神が、高くも遠くも見たであらうことは、それもまた想像するに難くないやうな氣がする。私はよく信濃の方へ旅して、諏訪湖のほとりを通る度にあの建御名方の神を祭るといふ古い神社の境内を訪れたこともあるが、鬱然として氣象の近づき難さが身に迫るのを覺えた。今、この出雲大社に來て見ると、こゝにはそれほど深く沈んだものはない。こゝに祭られてある大國主の神は昔ながらの笑顏をもつて、多くの參詣者の頭を子供のやうに撫で、お伽話でもして聞かせてゐるやうに見える。海岸に近い神社の境内には、松の枝が汐風に吹きたわめられ、あたり
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