七月十五日の朝は、私は早く床を離れて、鷄二の起き出すのを待つた。大橋向うの松江の町は漸く眠りから覺めたばかりのやうで、岸のところ/″\には燈火が殘つてゐた。ほがらかに青く光る宍道湖の上には、高く舞ふ鳶などまでが朝の空氣を呼吸してゐるやうに見えた。すべてが靜かで、そして生々《いきいき》としてゐた。
 まだ鷄二は蚊帳の内に眠つてゐた。五時半ごろに私は鷄二を起して、その日の旅の支度にかゝらせた。美保の關の町長小西君と野村君とは、私には思ひがけない初對面の客であるが、前の日に兩君同道で私達の宿へ見えて、是非とも美保の關へ立ち寄つて行けと勸めてくれたので、私も兩君の言葉に隨つたのである。その日の私の心にはいろ/\な樂しみがあつた。境港から美保の關まで、船で入江を渡るといふ樂しみがあつた。山陰地方に名高い出雲浦を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして見るといふ樂しみもあつた。浦富以來、離れた日本海の方へもう一度出て行つて、すゞしい海風に吹かれるといふ樂しみもあつた。
 同行を約束して置いた古川君も私達の出掛ける前に宿へ訪ねて來た。私達は三人連立つて、大橋川の橋の畔まで歩いた。まだ朝のうちのことで、大橋の上を通る人もそれほど多くなく、松江市の活動は街路を清潔にすることから始められるやうな時であつた。それでも境行の小蒸汽船が橋の畔に客を待つところまで行つて見ると、一番の定期船に乘りおくれまいとするやうな人達が、澤山持ち込んだ荷物と一緒に、船室にも甲板の上にも溢れてゐた。
 松江市は宍道湖と中の海とを左右に控へた中央の位置にある。その二つの水をつなぐ長い運河のやうな大橋川の岸に沿うて、小蒸汽は動いて行つた。やがて私達の出て行つたところは、湖水のやうに靜かな中の海の入江であつた。岸にある崖の赤いのと草の緑とは、行く先で私達の眼をひいた。
「こんもりとした杜《もり》が見えますね。神社も見えますね。樹木のあるところは神の住居だと考へたのが、古代の人の信仰だつたさうですね。二柱の神なぞといふ數へ方も、さういふところから來てるといふぢやありませんか。」
 私達はこんなことを語り合つて身動きも出來ないほど乘客の多い甲板の上の暑苦しさを僅かに慰めて行つた。この入江には、大根島《だいこんじま》と呼ぶ島もある。村落二つほどもあるかなり大きな島だ。牡丹の花で名高い。春先には驚くばかり美しいといはれる花園がそんな入江の中に投げ出されてゐると考へて見ることも樂しかつた。
「これらの島は、水中に生じた濃緑の花園か何かのやうである。」といふあの言葉も思ひ出される。私達の乘つて行つた小蒸汽は白い泡を立て、波紋と渦とを描きながら、中江の瀬戸まで進んで行つて、境港の船着場のところで船體を横づけにした。私達のすぐ側には幾つかの籠に林檎やバナヽなどを積んだ三人ばかりの果物賣の女も乘つてゐた。果物の籠は殆んど私達の通り路を塞いだ。私達は果物賣りの女が上陸するのを待つて、飛び上るやうに陸の方へ移つた。
 かねて噂に聞いた境の港町は、米子《よなご》の方面から長く延びてゐる半島の突鼻《とつぱな》にあつて、岡山、米子間の鐵道が全通し、築港の計畫でも完成せらるゝ曉には、朝鮮、滿洲その他南支那への新しい交通の起點が更に一つ開けるであらうといはれるほど、希望に滿ちた位置にある。
「築港の設計所も、ついでに一つ見て行つて貰ひませう。」
 こんなことをいつて誘はれるまゝに、私達は築港設計所の建物のある小山の上にも登つて見た。そこは外國からやつて來る船を黒船といつた時代に、その外來の勢力を防ぐため舊鳥取藩で築いた臺場の跡であるとか。長さ二百五十間、幅二十間の埋立地をつくり、二百間あまりの岸壁を立て、總延長千六百間の餘にも及ぶ防波堤を築くために、五年間も一つの根氣仕事を續けて來たといふやうな、そんな辛抱強い人達が、その小山の上の土木出張所に働いてゐた。

 岡田汽船會社の岡田丸で、私達は境の港を離れようとした。その時は、古川君の外に、美保の關からわざ/″\出迎へに來てくれた野村君とも一緒になつた。
「私もお供をさして戴きませう。」
 といつて最後に甲板に上つて來たのは、會社側の渡邊君であつた。同行五六人のものがこんな風に甲板に集まつて、一緒に美保の關へ向つた。
 土地の事情に詳しい渡邊君と野村君とは、かはる/″\私の話し相手になつてくれた。境の港口から美保灣の方に見える工事中の防波堤を私に指して見せ、殆ど海中に幾何學的な線でも描いたやうなその堤が、北の方へ直角に折れ曲つたところなぞをも指して見せ、この工事が完成せらるゝ日には、千トン乃至二千トン級の數隻の船を同時に港口の岸壁に繋ぎ得るであらうこと、さういふ築港のあらましなぞを、世故《せこ》に長《た》けた調子で話し聞かせるのは渡邊君だ。船から
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