見て行く島根半島の方に私達の話頭を轉じ、國讓りの故事を語り、事代主《ことしろぬし》の神の昔を語り、この世がまだ暗く國も稚《をさな》かつたといふ遠い神代の傳説の方へ私達の心を連れて行くのは野村君だ。
「三よりの網ですか。この邊はあれを掛けて、國來《くにこ》、國來《くにこ》、と引いて來たところでせうに。」
かういふ話が出て來るのだから面白い。
私は自分に尋ねて見た。毎年二十萬人からの參詣者を美保神社に集めるといふ事代主の神には一體どういふ徳があつて、それほど多くの人の信仰の對象となつてゐるのだらうかと。俗に「お夷《えびす》さま」といへばどんな片田舍の子供でも知らない者のないやうな事代主の神とは、漁業の祖神であるばかりでなく、農業と商業とを司《つかさ》どる神でもある。そのことが既に平和の神である。これほどまた逸話に富んだ神もめづらしい。美保の關の住民が未だに鷄を飼はず、鷄の玉子を食はないことは、世に隱れのない事實である。が、それが神の殘した逸話から來てゐるといふこともめづらしい。釣ずきな事代主の神は寢惚けた鷄に時を過られ、未明に舟を出して、にはかな風と波とに櫓も櫂も失つた。止むなく足で漕がうとして、鰐のためにその足を噛まれた。これがそも/\鷄を忌むやうになつた事の起りとされてゐる。一説には神の愛するものが米子の方にあつて、夜明を告ぐる鷄のために果敢《はか》ない逢瀬をさまたげられた爲であるともいふ。いづれにしても、こんな逸話を後世までも殘したといふところに、この神の神らしさがある。誰でも親しめさうな神である。そこいらの岩の上に腰かけて、餘念もなく釣竿を垂れてゐさうな神である。これほど優しい神が、百姓や漁師や商人の友達であるのは不思議もない。あの福々しい笑顏を崩したこともないやうな親しみ易い神が、無數の老若男女から親のやうに慕はれるといふことにも、不思議はない。
果して、私達の乘つて行つた岡田丸が美保の關の港に着いて見ると、その邊に見つける船といふ船は、美保神社の參詣者の群で一ぱいに溢れてゐた。參拜記念の旗なぞを押し立てた船も眼についた。
こゝへ來て見ると、稻佐《いなさ》の濱での國讓りも、語り古された故事である。一艘の古い小舟の模型がその記念として、美保神社の境内に安置してあつた。「いな」(否)か「さ」(應)か、それは稻佐といふ言葉の意味であると聞くが、そこの濱邊に十掬《とつか》の劒を拔いて逆さまに刺し立て、その劒の前に趺坐《あぐら》をかいて、國讓りの談判を迫られたといふ時、大國主の神がひそかに使者を小舟に乘せて助言を求めたのも、美保にある事代主の神の許であつたといひ傳へられてゐる。私達はこの劇的光景を遠く想像させるやうな小舟の前で、しばらく旅の時を送つた。
名高い五本松のある山は、美保神社からいくらも離れてゐない。青く深い海水に臨んで、軒を列ねた水樓の屋根が、その傾斜の位置から眼の下に見おろされる。港に浮かぶ船舶のさまも、明るい繪のやうに美しい。おそらく美保の町長が私達に見せたかつたのは、故大町桂月君が「大天橋」と呼んだといふ夜見《よみ》ヶ濱から遠く伯耆の大山へかけての眺望であつたらうが、私はむしろその傾斜から見おろした美保の關の港の眺めを取る。昔は航海者の標的であつたといふ五本松のふもとには、一軒の休茶屋もあつた。そこで味はふ茶もうまかつた。晝食の時刻には、私達は山から下りて、春畝《しゆんぽ》山人の額などの掛つた美保館の座敷で、先づ汗をふいた。
十 出雲浦海岸
同じ日の午後。
境の港から私達を乘せて來た岡田丸は、美保の關での荷積みその他を終つて、棧橋のところに私達を待つてゐた。
出雲浦の海岸を見ないでは、山陰道の海岸を見たとはいへないとは、故大町桂月君の言葉であるとか。大町君はこの地方の中學に教鞭を執つた時代があつて、そんな關係から、山陰方面には同君の足跡の至らないところはないといはれたほどの旅行家だ。この山陰通の殘した言葉を聞いたばかりでも、私の心は動いてゐたのに、松江の太田君からも出雲浦海岸のいゝことを聞いて來た。私達は今、岡田汽船會社の渡邊君等の厚意から、その出雲浦に出て、外海の方から、島根半島を一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りして見るやうな機會に接したのである。
岡田丸は境、江角《えすみ》間を隔日に往復する定期船であるが、同時に觀覽船を兼ねた形で、乘り心地もよかつた。私達は船長室に近い舳の方の甲板の上に陣取つたが、一行の五六人のものの中には松江からの古川君、境からの渡邊君の外に、美保の野村君もまた一緒で、境から乘つた時と殆ど同じ顏觸れであつた。船が棧橋を離れて、その靜止した位置から美保の關の港を後方に動き出して行くと、樂しい波の動搖が私達のからだにまで傳はつて來た。私達は船體の底の
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