んでゐた。私達はその朝の空氣の中で、時々びつくりするやうな魚の飛ぶ音をも聞きつけた。その邊の藻の多いところには、流れるまゝに舟を任せて置いて、鰻でも引き揚げて行くらしい漁夫もあつた。
二人の客が訪ねて來た。
古川君、太田君、二人とも私には初對面の客である。古川君のことは大阪で聞いて、紹介の名刺まで貰つて持つて來てある。私はこちらから訪ねないうちに、同君を自分等の宿に迎へることが出來た。同道の太田君は松江商業會議所書記長の肩書はありながら、俳人としては柿葉といつて、故大須賀乙字氏なぞに親しい交際があつたと聞くもなつかしい。私達は行く先で好い案内者を得たばかりでなく、今また二人までも出雲地方のことに詳しい人達に逢つて、全く土地不案内な自分等の手引と頼むことの出來たのはうれしかつた。
「山陰道の樂しいのはいつでせう。夏でせうか。それとも、冬でせうか。」
私は信濃の山の上に、七年も暮したことのある自分の經驗から押して、普通なら夏の旅を樂しいといはれてゐるあの地方に、住んで見ると長い冬期の味の深かつたことを思ひ出して、そんなことを太田君に尋ねて見た。
「やつぱり冬でせうな。夏の山陰には優しい方面しかありません。夏を見たばかりで、ほんたうの山陰らしい特色を味はつて頂いたとはいへないかも知れません。」
松江を生れ故郷とする太田君の答は、私の待ち受けた通りでもあつた。同君は慶應出身とやらで、思ひがけないところで水上瀧太郎君や久保田万太郎君の噂も出た。いろ/\な話の末に、柏原まで一茶の生地を訪ねに行つた時のことも出、その時に信濃路を旅して見たことも出て、信州人と出雲人との間には何處かに共通したもののあることを私に話し聞かせたのもこの太田君だ。
「お疲れでせうから、いづれまた。」
明日を約束して兩君は歸つて行つた。その後で、私は太田君の殘して置いて行つた話を思ひ出して湖水に浮ぶ大橋の方を望んで見た。私達が泊つた宿の二階の位置は、向うの橋の上を通る男や女の下駄の音を聞くほどの距離にある。毎年の盆の季節が來ると、草市はその長い橋の上に立つ。太田君は草市の翌朝に通つて見て、まだ草の香りがそこに殘つてゐた時のことを忘れがたいといつた。
連日の旅で、私達の着るものはひどく汗になつた。着更へのワイシヤツなども三日とは肌に着けられなかつた。それほど暑さに苦しんだ。せめて松江ではゆつくりして行かう。それを私は鷄二にも話して、その日一日は宿で暮すことにした。思ひ做《な》しの故《せゐ》か、袖ヶ浦の向うに見える一帶の山々までが横になつて、足でもそこへ投げ出してゐるかのやうでもある。それがのんびりとした感じを人に與へる。旅の私にまで、先づ休んで行け、といつてゐるやうにも見える。淡水湖と聞く宍道湖の水は、山上の湖水のやうに重苦しくなく、海のやうに激しい變化もない。湖上に波の騷がない日はないとも聞く嚴冬の季節は知らないこと、今は自然も休息してゐる時である。
連れの鷄二はかういふ日だとばかり、かねて用意して來た畫布なぞを、廊下のところに取り出し、おもしろく造つてある庭の一部から湖水まで、餘念もなくその畫面のうちに取り入れてゐた。そこでは庭の砂の色まで明るい。無果花《いちじく》の枝に小さな浴衣なぞの掛けて乾かしてあるのも、宿の女の兒達の着るものかと見えて愛らしい。
「なんだか、こゝへ來ると好い氣持になつてしまふね。」
時々鷄二は、そんなことをいつて、描《か》きかけの繪筆もそこに投げ捨て、庭から岸の石垣の方へ降りて行つた。泳ぎか、舟か、暇さへあれば鷄二は湖水に出て遊んだ。
「父さん、こゝの人達の話を聞いて見た? 出雲なまりといふやつは隨分變つてるね。僕が舟の中でスケツチしてゐると、通る船頭が二人で話してゐたが、何をいふかさつぱり分らなかつた。」
と鷄二はいつてゐた。見ると、岸に繋いだ小舟から薪を背負つて、宿の勝手口の方へと運んで行く男もある。その男は背に小蓑をあててゐる。鷄二はそれを私に指して見せて、
「父さん、御覽。僕等の國の方では『せいた』を使ふが、こちらの人はあんな藁の紐で背負つて行くよ。遠いところは、とてもあんなことぢや駄目だがなあ。」
こんな比較を語つた。薪の背負ひ方にかぎらず、關東を見た眼でこの地方を見ると、いろ/\な相違を見つけることも多かつた。櫓の綱の長く、櫓壺の淺く、櫓ちんの割合にはづれ易く見えるなぞもその一つだつた。この邊の人の小舟の漕ぎ方は上海あたりのジヤンクを私に思ひ出させた。
その日は舊い暦の上での十六日に當つた。私は遠く離れて來てゐる東京の留守宅のことを胸に浮かべて、ことしの盆はどうしたらうなぞと思ひやつた。夕方には、大橋の方の柳の枝のかげあたりから、提燈のやうな大きな月が上つた。
九 境港と美保《みほ》の關《せき》
前へ
次へ
全28ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング