ふ想像が生れて來たのか。いづれとも私にはいふことが出來ない。兎もあれ、旅の私達が出て行つたところは、暗い黄泉《よみ》の國どころか、むしろその反對に、ちよつと他に見られないほどやはらかく明るい感じのする地方であつた。俗謠で知らないもののない安來《やすき》とはこゝか、さう思つてその驛を通り過ぎて行くと、山陰らしい赤い土の色が、城崎や香住あたりで見て來たよりも更に濃い。崖も赤く、傾斜も赤い。赤い桑畑もめづらしい。夕日は海の方にかゞやいて、何となく水郷に入るの感もあつた。それもそのはずである。私達が出て行つた岸は、夜見が濱とは反對の側にある廣い入江に添うたところであつたから。陸には稻田も多かつた。畑にはすでに青い葡萄を見、長く延びた唐玉黍《たうもろこし》の穗をも見た。揖屋《いや》の驛を過ぎた。小蒸汽船、帆船、小舟などを汽車の窓から望むことの出來るやうな光景がひらけた。私達は七時近い頃まで乘つて行つて、宍道湖の水に映る岸の家々の燈火がちら/\望まれる頃に、松江に入つた。
鳥取の方で聞いて來たところによると、東京から大阪まで百五十里、大阪から鳥取まで五十里、鳥取から米子へ二十五里、それより松江へ八里、都合およそ二百三十三里はあらうとのことであつた。松江の宿に着いた時は思はず私も溜息が出た。この溜息は、はげしい暑さを凌いで漸くこゝまで來たといふ溜息であつた。
松江本町、大橋の畔に近いところが私達の宿の皆美館《みなみくわん》のあるところだ。三人の女の兒が人形のやうに並んで宿の帳場に近い部屋で夕飯の膳についてゐたのが、先づ眼についた。私は旅の鞄の中に三朝土産のとち餅を入れて來たことを思ひ出し、子供達へといつて、それを女中に持たせてやると、やがて三人とも宿のおかみさんに連れられて私達の部屋へお辭儀に來た。姉は九歳、妹達は八歳と六歳になるといふ。いづれも可愛らしい女の兒だ。
「これはいゝ宿だ。」
私と鷄二とは互にそれを言つて、出雲らしい空の見える二階の部屋にくつろいだ。宍道湖も靜かな時だ。岸をひたす水の音が石垣の下のところから、かすかに聞えて來るぐらゐの時だ。湖水に浮ぶ長い大橋の眺めもちよつと江州の瀬田の橋を思ひ出させるやうなところで、私達は暑い一日の旅を終つた後での入浴後の樂しい心持を語り合つた。鷄二はまた鷄二で、大阪の宿の方の噂までもそこへ持ち出して、風呂場の番頭に脊を流して貰つたはよかつたが、どうにもくすぐつたく、自分の内股をつねつて漸くそれを我慢したことなぞを白状して、私を笑はせた。
この松江へ來るまでの途中での旅の印象、そこで望んで來た入江の水、そこで望んで來た岸の青田なぞは、まだ私の眼にあつた。その中には恐ろしいまでに龜裂を生じた田もあつて、あれはことしの旱《ひで》り續きの結果か、いや、あれが鹽田といふものか、と汽車中の乘客が大騷ぎしたことも忘れられない。松江に來て見て、この地方にも田植時分の雨の少なかつたことを知つた。こんな水郷の感じのするところで、どうして水に不自由したらう。それを私が宿の女中にたづねたら、
「水は水でも、潮水でございますもの。」
それが女中の返事であつた。農夫等は水を見ながら、乾いた田をどうすることも出來なかつたといふ。さういふ田は今年だけ畑にして、また來年の田植の時を待つといふことであつた。
私達親子のものは、めつたにこんな旅を一緒にしたこともない。二人きりとなると、互ひの旅の心持も比べて見たい。
「御覽な、どこの宿屋へ行つても二の膳付だぜ。御馳走して貰ふのはありがたいが、みんな食べられるやうな物を出したらどうだらう。」
「いや、僕はさう思はないね。お客さまの好きなものもあれば、嫌ひなものもある。宿屋ではそこまでは分らないだらう。だからいろ/\なものをそこへ並べて出せば、お客さまは自分の好きな物を喰ふ。お父さんのやうな人ばかりがお客さまぢやないからね。」
「お前のいふことも、一理窟あるかナ。」
こんな話も旅らしい。
この松江の宿で、私達は七月十四日の朝を迎へた。大橋は水に映つて、岸から垂れさがる長い柳の影もすゞしい。私達の眼にある光と影とで、朝の湖水らしくないものはなかつた。何を見ても眼がさめるやうであつた。舟のすきな鷄二は石垣の下に繋いである宿の小舟を見つけ、早速宿の主人に交渉して、朝のうちにそこいらを漕ぎ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて來た。まだ朝飯には間があつた。私も鷄二と一緒に舟で宍道湖の上に浮んで見た。櫓は私もすきで、東京淺草の新片町に住んだ時分にはよくあの隅田川の方へ舟を出したこともある。舟も何年振りか。それを私も思ひ出して自分でも櫓《ろ》をあやつりながら嫁ヶ島の方角をさして漕ぎ出して見ると、思つたよりもその邊の水の淺いことも分つた。澤山な蜻蛉《とんぼ》の群は水の上を飛
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