山花袋君の書いたものを見つけてうれしく思つた。大正十二年この地に遊ぶとある。さうか、あの友達もこの宿に泊つて旅の時を送つて行つたのかと思つた。
 大正十二年といへば私達の忘れられない年だ。おそらくあの友達がこの地に遊んだのは、東京へ震災の來る前の夏のことであつたらう。あれから最早かなりの月日がたつ。私達の眼にある三朝川、白く黄ばんだ土手の上の趣のある道、兩岸に相對する温泉宿、これらの眺めはあの友達の來て見たころと同じやうであらうか。そこの河原へは鶺鴒が來た、鮎を釣る男も來た、こゝの橋の下へは村の娘達が無心なまるはだかで水を泳ぎに來た。と私達は眼にあるものを指していふことも出來たけれど、あの友達の來て見たころはこれよりもつと野趣のある土地であつたらうか。温泉地としての三朝の發展は十數年このかたのことと聞く。三徳山行の參詣者達のために昔風の温泉宿があつた以前のことに比べると、今の三朝は別天地の觀があるともいふ。こゝは諸方から入り込む浴客を相手としての温泉宿と商家と、それから周圍に散在する多くの農家とから成り立つ。温泉地としての三朝の經營は、温泉宿や商家の負擔であるばかりでなく、農家の負擔でもある。そこから村の惱みも起ると聞く。村の人達の間にはまた土地の強い執着があつて、たとひ他から來て別莊でも建てようとするものが、坪百圓で地所を讓り受けたいといひ出しても、頑としてさういふ相談に應じないといふ話も聞く。三朝は將來どうなつてゆくのか。温泉地としての城崎を熱海あたりに比べていいものなら、こゝは箱根あたりに近いところにでもなつて行きつゝあるのか。いづれにしても、三朝川の溪流の音だけはこのまゝ變らずにあらせたい。三朝を發《た》つ前、倉吉《くらよし》から見えた神田君を案内に頼んで、ちやうど養蠶時にあたる附近の農村をも訪ねて見た。私の長男が耕してゐる郷里の山地に思ひ比べると、いろ/\相違を見つけることが多い。旅の私達はここに働いてゐる人達のことを考へて見るといふだけにも滿足して、あちこちの柿の枝に藁造りの飾りなどの吊るしてある農家の間を歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて見た。

    八 松江まで

 大阪を出る時の旅の豫定では、三朝から米子《よなご》に向ひ境の港に出、あれから宍道湖《しんぢこ》を船で渡つて松江に着くつもりであつた。私はこの豫定をいくらか變更して、一息に汽車で松江まで延びることにした。そこで、三朝を發つた。
 私と鷄二とが上井《あげゐ》の停車場まで元來た道を引返して、そこまで見送つてくれた神田君に別れたのは、午後の四時頃であつた。私達はまた親子二人きりで松江行の汽車の一隅に腰かけ、山陰線らしい車中の人達の風俗を眺め、眼にいるものすべて始めてでないものはないやうな海岸の方へ出て行くといふ樂しみをもつた。名高い伯耆《はうき》の大山《だいせん》の姿も次第に車窓から望まれるやうになつた。あの信濃路あたりに見るやうな高峻な山岳は望まれないまでも、幾つかの峯の頂きを並べたやうな連山の輪廓はかなり長く延びてゐて、たしかにこの地方の單調を破つてゐた。これが汽車でなしに、歩きながらの旅であつたら。私はそのことを胸に描いて見て、大山に添ひながらのこの海岸の旅もさぞ樂しからうと思った。
 下市《しもいち》の驛まで乘つて行つたころは、遠く望んで見る大山でなしに、山の麓までも見得るやうになつた。雲の蒸す日で、山の頂きは隱れて見えなかつた。それが反《かへ》つて山の容《すがた》を一層大きく見せた。ある雲はその中腹に、ある雲はその頂きの方に走つてゐた。御來屋《みくりや》の驛まで乘つて行つた。そこまでゆくと、大山の溪谷までもかすかにあらはれて來た。それが雨後によく見る濃い桔梗色であるのも美しい。更に名和の驛まで乘つて行つた。私達は歴史に名高い船上山《せんじやうさん》を望んだ。海岸に寄つた方に山角のとがつたのがそれだつた。米子《よなご》の一つ手前には、伯耆大山といふ名の驛もある。その時になると、高く望まれる赤い山のがけから、樹木のない谷間まで、私達の旅の心がどうその傾斜をほしいまゝに馳せ囘らうと自由だつた。私達は、午後の五時半ごろの日が山腹に青く光るのを見て、米子の驛まで乘つていつた。
「最早、出雲だ」
 思はず私は周圍を見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。遠い古代の人の想像がその時私の胸に浮んだ。これから私が訪ねようとする出雲地方とは、いはゆる夜見《よみ》の國である。そしてその夜見の國とは、古代の人の想像した死の國である。どうして出雲地方が死の國であるのか。それは神話と現實との混淆であるのか。我國の最初の母なる神、造物神、その伊邪那美《いざなみ》の神の永遠に眠れる墳墓の地とは伯耆と出雲の國境にあるといひ傳へられるところから、さうい
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