つた。長く留まることの出來る旅でもなかつたから、鳥取の町を見渡すだけにも私達は滿足して、やがて元來た道を引返さうとすると、過ぎゆく「時」の歩みをさも深く思ひ入つたやうな一人の老人にゆき逢つた。その老人は、石垣の間に青竹の杖をさしいれ、それに腰かけて、朝飯には遲く晝飯にはまだ早いやうな辨當を獨りでつかつてゐた。今だに封建時代に生きつゝあるかのやうな人を壘壁の一部に見つけるといふことも、かうした城塞の跡に來て見る旅の心を深くさせた。
「あのお爺さんはきのふもこの城址に來てゐて、いろ/\なことを僕に説明してくれたよ」
 と鷄二は私にいつて見せた。
 その日の午前には、私達は名高い砂丘の方へも自動車を驅つて、長さ四五里にわたるといふ、この海岸の砂地の入口にも行つて立つて見た。黄ばんだ熱い砂、短い草、さうしたさびしい眺めにも沙漠の中の緑土のやうに松林の見られるところもあつて、炎天に高く舞ひあがる一羽の鳶が私達の眼に入つた。砂丘の上からは海も望まれるかと、鷄二が一人で砂の道を踏んで行つた後姿も忘れがたい。浦富以來よい案内者であつた岡田君にも別れを告げて、その日のうちに私達は鳥取を辭した。

    七 三朝《みさゝ》温泉

 鳥取の停車場を離れてから、また私は鷄二と二人ぎりの汽車の旅となつた。私達は今、山陰道の海岸に沿うて、傳説の多い地を旅しつゝある。その考へはひとりでに私の胸に浮んで來た。湖山《こやま》の池も近いと聞くと、私は鳥取の方で聞いて來た湖山の長者の傳説を自分の胸にくり返して見て、おとぎ話の世界にでも心を誘はれるやうな思ひをした。その傳説によると、長者は廣い土地を所有し、多くの人を使つて、一日のうちに自分の所有する田地の植付を濟まさうとしたほどの人である。長者は又、手に持つ扇をひろげ、西の空に沈みかけた太陽をさし招いて、その日のうちにすつかり苗を植付けてしまつたといふほどの人である。しかしこの自然を無視したやうな行ひは、それ相應なむくいを受けない譯にいかなかつた。長者の田は一夜のうちに青々とした湖水に變つてゐたといふのである。この傳説の世界が、眼に見る湖山の池であるのだから面白い。島二つほどある靜かな湖水だ。私達がそれを望んで通り過ぎようとしたころは、にはかな夕立が湖水の上へも來、汽車の窓の外へもきた。
 もつと古い傳説を、傳説といふよりも古い神話の殘つた地方を、松林と砂山の多い因幡《いなば》の海岸に見つけることも出來た。旅の心は白兎の停車場に至つて驚く。私達は出雲《いづも》地方までゆかないうちに、ずつと大昔からの言傳へが、こんなところにも殘つてゐるのかと、先づそのことに驚かさる。大國主の神が多勢の兄弟と共に旅して來た稻羽《いなば》の海岸とはこゝだといふことに氣がつく。智惠のある白い兎が※[#「二点しんにょう+於」、310−下−22]岐《おき》の島から鰐の背を渡つて來たのもこゝだといふことに氣がつく。あれは古い神話のうちでももつとも樂しいものの一つだ。私達の側には鳥取から一緒に乘つて來た鳥取新報の記者もゐて、鰐とは青い鮫《さめ》のことであり、それが古代の海賊のことであり、白兎《しろうさぎ》とは善良な民族のことであるといふ一説なぞを話し聞かせてくれた。記者は故有島武郎君をも知つてゐて、同君の亡くなる前の年かに、鳥取地方へ講演の旅のついでに疲れを忘れて行つたといふ濱村温泉をも私に指して見せた。あの「星座」の著者を記念するやうな濱村温泉は海に近いところにあつた。私達はその海邊に添うた砂山と松林とをも車の窓から見て通り過ぎた。
 因幡《いなば》の國境を離れて伯耆《はうき》に入つたころは、また夕立がやつて來た。暗い空、黒い日本海。車窓のガラスに映る水平線のかなたには僅に空の晴れたところも望まれたが、やがて海へも雨が來た。私達は上井《あげゐ》の停車場で一旦汽車から降りて、三朝《みささ》行の自動車に乘りかへた。濱村温泉といひ、東郷温泉といひ、これから私達が訪ねてゆかうとしてゐた三朝温泉といひ、この附近には至るところに好い温泉地のあることも思はれる。
 雨を衝いて二里ばかりの道を乘つていつた。次第に山も深い。川がある。橋がある。三朝川は私達の沿うて上つて行つた溪流だが、いつの間にか河上の方から流れてくる赤く濁つた水を見た。

 三朝川は前を流れてゐた。私達は三朝温泉の岩崎といふ旅館に一夜を送り、七月十三日の朝を迎へて、宿の二階の廊下のところへ籐椅子なぞを持ち出しながら、しばらく對岸の眺望を樂しんで行かうとした。雨もあがつて、山氣は一層旅の身にしみた。河の中洲を越すほど溢れてゐた水もいつの間にか元の瀬にかへつた。こゝで聽く溪流の音はいかにも山間の温泉地らしい思ひをさせる。河鹿の鳴聲もすゞしい。ゆふべは私は宿の女中の持つて來て見せた書畫帖の中に、田
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